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相場をやる真の目的とは何か 1

2013/09/08 Sun

友人のトレーダーとの会話です。


「先日、知人の人と話をしていて、その人は、野村証券の営業マンの言いなりになって、バイオ株とかを売買して、500万円の資金がここ数か月で半分になった、というのですが、何故そんなに損ばかりするのか、途中でやめないのか不思議です。」

まず、こういう人は、そもそも損ばかりはしていない、ということ。
営業マンは動いている新興株を客に勧めているので、飛び乗って結構しばらくは利益になったりしているはず。
するとすぐに売って利益を確定する。
デイトレになるか、数日後かはわからないけど、数万円でも利益になれば、すぐに利確する。
営業マンも儲かったら客に電話して、利確を勧める。
そうやって回転売買ができている間はいいのだけど、損になった銘柄は戻るまで売らないで粘る。そうすると、必然的にそうやって損した銘柄が徐々にたまってくる。
最初は、資金に余裕があって、回転できているのだけれど、1つ引っかかって、2つ引っかかって、3つ引っかかって、としているうちに、ついに資金全部が塩漬けになってしまう。
そうなると、何もできなくなって、塩漬けが完成する。
そうやって放置した株は、バイオ株などゲテモノであればあるほど下げもきついので、数か月で半分になるなどは普通のこと。
最初から、塩漬けばかりという人などいない。

時間をかけて塩漬けを作る・・のが普通。

儲かったらすぐに売ってちょこちょこ利食い、損したら塩漬け、というパターンが普通だから、最後は必然的に全部持ち株は塩漬けということになる。

そもそも、

相場というのは、下手に当たるから質が悪いのだ。
最初から損して全然当たらなければ、とっくに小さな損でやめている。

下手に間違って当たるからこそ、大損への道を作るのだ。



「しかし、不思議なのは、そういうことをやっていたら絶対に儲からないのに、何故やるのでしょう。」

じゃあ、逆に何故だと思う。



「わかりません。儲けようとしているのは当然だと思うのですが。」

実は、そこがそもそも違うのだ。

そもそもの相場をやっている動機が全く違うんだ。
 
本人は、儲けようと必死なのは確かなのだけれど、本当の動機は実はそうじゃない。

実は、

相場を楽しんでいる。相場で遊んでいるんだ。

もっと言えば、博打をやっているだけなんだ。
博打を打って、遊んでいるんだ。



「そんなことはないと思いますよ。相場をやっている人は皆儲けようと思ってやっていると思います。」

そうだろうか。
相場ではわかりにくいかもしれないので、別の例を考えてみる。

じゃあ、逆に聞くが、競馬。
一発当てて儲けてやろう、と全員が思っているのは間違いない。
損しようと思って競馬をやる人などいない。

しかし、本気で儲けてやろう。これで生活してやろう、年間を通じて儲けを出そうとしている競馬ファンがどれだけいるのだろうか。
競馬場に5万人とか押し寄せるけど、そこで本気で儲けようという人はどれほどの%いるだろう。

では、パチンコはどうだろう。
日本は、博打大国なので、どんなに小さな町にも駅前にはパチンコ屋がある。
どれほどのパチンコファンがいるのだろうというほど、多くのパチンコ屋が軒を連ねている。
しかし、そのファンの中で、本気でパチンコで儲けようという人がどれほどの割合でいるだろう。
これで生活しよう、パチンコで儲けて家を建てよう、という人がどれだけいるだろう。



「うーん、ほとんどいないと思う。」

そうだろう、ほとんどいない。
ほとんどの人は、競馬、パチンコで負けている。
というより、延々と負け続けている。
ファン歴10年なら、10年間ずっと負け続けていても、まだ続けている。
そして、「これはおかしい。こんなことを続けていてもダメだ。」なんて思ってもおらず、相変わらず週末には馬券を買う。
休みの日に、一日中バチンコをやっている。
じゃあなんで、競馬やパチンコなどを続けているのか。
どうしてだ。
それは、博打を楽しむため。博打が好きだから、博打を打って遊びたいから。
つまりは、遊びのためにやっている
本人は、「儲けるため」という大義を持っているので、否定するかもしれないけど、実際には、博打を打って遊びたいから競馬やパチンコをやっている。

本当の目的は、儲けるためじゃなくて、博打を打つこと。それが目的なんだ
 
ここで、手段の目的化が起きている。

つまり、

本来は、儲けるための手段である「博打」という行為そのものが自己目的化している、ということなんだ。



「なるほど。つまり相場も同じだということですね。」

その通り。

相場だけが違うのか。相場だけは特別なのか。

相場参加者は、全員が儲けるためにのみ動いているのか。
と言えば、それは絶対に違う。
ここでも、本人は断固否定するだろうけど、かなりの割合の相場参加者は、博打を打って遊ぶことが自己目的化している。

本来は、投機という儲けるための手段が目的化しているんだ。

だから、さっきの500万を250万にした人は、実は目的を達している。
博打を打ちたい、という目的を達成できているんだ。
そもそも、営業マンの言いなり。そして、ゲテモノ株を自分で調べもせず適当に売買するなど、客観的に考えて儲かるはずがない。
それを何故やるのか、と言えば、目的はただ一つ。
博打を打ってドキドキしたいから。
博打を打ちたいから。

人は趣味に金を使うもの。
女性なら、服を買ったり、宝石を買ったり。
男なら、”飲む打つ買う”で使う。
車を買って250万使うか、相場で250万使うか、何らの違いすらない。
キャバクラで散財するのか、相場で博打打って使うのか、同じ。
遊んで使うのだから、全く同じこと。

しかし、投資をしている本人に聞いても、全員が「自分は儲けるためにやっている」と言う。
遊び目的を否定する。
そんなことは当たり前だ。
競馬とて、パチンコとて、「みんな儲けるためにやっている」と思っている。
それと同じことだ。

競馬やパチンコから考えてわかることは、相場とて、実は相当な割合の投資家の真の目的は実は「博打目的」だということだろう。

延々と何年も何年の負け続けているのに、同じように売買を続けている人など、その典型だろう。



「博打目的というのは、損を続けているということだけからわかるものですか。」

それは違う。
同じ損をしている投資家でも、その損の質が違うんだ。
私から見れば、実際の売買を見れば「単に遊んでいる」としか思えないような売買を工夫もなしに平気で続けているんだ
売買の内容を聞くと、たぶんこの人は、相場で遊んでいるのだろうな、という売買を続けているのをものすごくよく見る。



「それはどんな売買なんでしょう?」


続く



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相場をやる真の目的とは何か 2

2013/09/10 Tue

「それはどんな売買でしょう?」

何となく売買する。営業マンなど人に聞いて売買する。感覚的売買をする。のべつくまなくやる。いい加減に売買する・・・など、そんなことで継続的に儲かるはずがないのに、やっている。

いい加減に売買して、営業マンに聞いて売買して、儲かるなら、世の中に損する人などいない。
 
人に教えて儲かるなら、何故営業マンなどやっているのか。

1000円の雑誌の推奨銘柄で儲かるのなら何故その雑誌は1000円なのか。

こういう当たり前の常識が理解できていない。

そもそも、マーケットの仕組みもよくわかっていない。手数料などピンハネの仕組みも理解していない。大して勉強もしないから、投資理論も学んでいない。基礎学力がない。それなのに、売買だけは熱心にやる。
本人は儲けよう儲けようと必死かもしれないけど、そんなやり方では客観的に見て絶対に儲からないことをやっている。

とにかく、

「客観的に考えたら、絶対にそんなことを続けていて相場で儲けられるはずがない」という売買を平気で続けている投資家がものすごく多いのには驚く。
しかも、何回も損しているのに、また同じように、同じ考え方で続けている。
反省を忘れた人たち、それが投資家・・という格言があったけど、そのとおりだと思う。

彼らにとって たまたま当たったかどうか、それがものすごく重要 であって、それ以外には大した意味がないんだ。

とにかく、場当たり的、刹那的

その場限りで儲かればよい、当たればよい、というスタンス。
勝てば官軍と言うことをよく言われるけど、そんな考えだからダメだということに気がつかない。
当てものをやって、たまたま当たったことにどれほどの意味があるというのだろう。

しかし、本当は、それを続けていて意味があるのかどうか、が重要であって、たまたまそれが当たるか外れるかなど、ほとんど何の意味もない、ということにはまるで気がついていない。

拝金主義であって、刹那的、そして、偶然に賭けるということに強い快感を覚えている。

正に、

単なる博打行為であって、それ以上でも以下でもない。

勝ち馬投票券を握りしめて、絶叫している競馬ファンと何らの違いとてない。



「もう少し具体的に言うとどんなことでしょう?」

たまたま今回当たるかどうか、ということに全力を注いでいる。

何故、

「今回当たることがそんなに重要なのか」

単なる偶然の産物に過ぎない今回のトレードが、偶然当たることがそんなに大切なのか。
ということなんだ。
 
勝てば官軍と考えている人は、間違ったトレードであっても、当たれば正しいと考える。

しかし、本来トレードとは、短期的な当たりはずれは偶然の作用にしか過ぎないのだから、今回当たったか外れたかはどうでもいいことなんだ。
それよりも、やるべきことをやれたかどうか。
当たり外れの結果などどうでもよい。

競馬で考えれば、馬券を買うまでが重要であって大切なプロセス。
馬券を握りしめて馬が走るところを応援するのは、どうでもよい楽しみだけの行為なんだ。
何故なら、もう結果は、馬券を買った時点で決まっているから。
馬券を買った時点で、どう自分が応援しても、結果に変わりはない。
翌日の新聞で結果を見ればよいだけのこと。
つまり、

馬券を握りしめて、馬を応援する、絶叫する、という行為は全て遊びであり、趣味の領域だ、ということだ。

これと同じで、

株を買って、上げ下げをドキドキしながらただ見ているのは、趣味の領域だ、ということだ。
いくら応援しても、値動きに影響など出ない。
昔は、証券会社の店頭で、株価ボードを眺めているおっちゃんたちが大勢いたけど、別に何をするわけでもなく、ただ株価の上げ下げに一喜一憂している。

そして、

「はぁー、疲れた」

と一日を終える。

疲れたって、おっさん、何もしてないじゃないか、ってことだ。

下がったら放置するだけなんだから、別に見る必要などない。
上がったらちょこちょこ利食いするために見ている、ということだろうけど、実に感覚的、目先的対応をやる。

結局、場中見ていたために、値動きを追いかけて最悪のタイミングで売買することになる。

それだったら、場中に見る必要などなく、引けてから翌日どうするか決めればいいだけだ。
林先生が言うのは、そういう意味なんだ。

こういう

「趣味的要素を排除せよ。」

って意味なんだ。

これは、みんな趣味なんだ。遊びなんだ。

リーマンなら、帰りに夕刊紙を買って、株が上がっているか下がっているかを見るということが昔は多かった。
これも、朝の新聞で見ればいいだけの話だ。 
しかし、それが楽しみなんだ。

こういう行為は全て、博打の楽しみだけの話だ。
自分がやっていることが、実は、単なるギャンブル行為に過ぎないということをわかっていない。

さらに、継続すれば、自分が不利に陥ることが理論上はっきりしているにもかかわらず、いざ目の前のトレードとなれば、目先の損益にこだわってできずにいる。



「それは何ですか?」

損切りができない。チャンスを待つことができない。利食いを我慢できない。などなどで、

結局、博打を打つ楽しみを優先していんだ。

頻繁に売買する。チャンスでもないのに適当に売買する。いい加減に売買する。
そもそも、場当たり的に当たるかどうかに必死になっている。
偶然でも当たれば官軍、外れれば賊軍。単なる当てもの売買を繰り返している。
完全に拝金主義に陥っている。



「では、そういう博打的売買と一線を画すにはどうしたらいいんでしょう?」

自己規律。それを守ってやっているかどうか、が分かれ目。

Discipline Makes The Difference

に尽きる。

私が見たところ、かなりの投資家はこれをほとんど守れていない。
つまりは、博打を楽しんでいる。
遊んでいる。
これは、競馬、パチンコの例を見るまでもなく、実は真の目的は儲けることではなく、遊びなんだ。
”飲む打つ買う”のエンターテイメントなんだ。

ほとんどの人にとって、トレードとは、実は、エンターテイメントの一環であって、趣味の一つに過ぎないんだ。

本気で儲けようと努力している、と本人は断固遊びを否定するだろうけど、先ほども言ったように現実にやっていることを見ればすぐにわかる。



「もう少し具体的にそれはどういうことでしょう。」


続く




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相場をやる真の目的とは何か 3

2013/09/14 Sat

「もう少し具体的にそれはどういうことでしょう。」 

結局、やりたいようにやっている。

自分が楽しくなるようなやりかたをやっている。

傍から見れば、もう遊びとしか思えないような売買を続けている。

目の前の当たり外れにばかり執着している。

実に趣味的なんだ。 

さきほどの500万を250万にした人も「単に遊んでいる」としか思えないような趣味的な売買の典型的事例だろう。

本当は、

それを継続すればプラスの期待値が期待できるのかどうか

ただ、それだけが重要であって、目の前の当たりはずれなど、どうでもいいことなのに、そこばかりに執着しているんだ。

さらに、

時間がないといって勉強しない。努力しない。実戦経験を積まない。しかし、儲けたいという欲だけは一人前だ。 

時間がないならやらなきゃいい。それだけだ。
というより、やってはいけない。

相場参加者の多くが、血で血を流すような戦いを総力戦で仕掛けているのに「時間がない」など、ねむたい話をしているのなら、最初からやらなければよいだけの話だ。 

そもそも、

ちょっとチャート見たぐらいで勝てるなら、世界中みんな勝っている。

初心者がいきなり勝てるのなら、世界中で負ける人などいない。

必勝パターン、聖杯を探す。しかしそんなのあったらとうに誰かが見つけている。

こんなことは常識だと思うのに、そういう常識が通用しないのが投資家。
全ての投資家が、自分だけは違う、と思っている。

聖杯探しは楽しい。
宝探し、冒険、本当に楽しい。
ディズニーランドに遊びに行っているよりも楽しい。

つまり、趣味だ。

チャートを探して、どこかに必勝法が隠れているはずだと思うのは勝手だ。
しかしそれは、夢があって、希望があって、いつか俺だって、という趣味の世界の話。
現実は違う。

恥ずかしながら、私も、趣味の世界として聖杯探しをしているが、それが実益に結びついたことは一度とてない。
情報商材にも数多く手を出しているが、商材で儲かったことは一度もない。
それが、現実というものの厳しさなんだ。

趣味で相場をやる。
別に人それぞれだから構わないのだけど・・・
残念なことに、そんなカモが相手にしているのは、世界中の英知を集めたヘッジファンドであり、投資銀行であり、毎日毎日ほとんどの時間を費やして努力し続けているプロのトレーダーたちなんだ、ということもわかってはいない。

そういうヘッジファンドでさえ、年間10%回ればトップパフォーマーだというのに、自分だけは1年で資金を何倍にもできると本気で思っている。
そういう現実のこと、相手のことなど、まるでわかっていない。



「しかし、相場に真剣に取り組んでいる人も多いと思います。一生懸命勉強している人も大勢いると思いますが?」

それは、本人がそう思っているだけで、実際にやっていることは”実に趣味的”なことばかりということがものすごく多い。

実際、競馬ファンだって、多くの人が、前日に競馬専門紙を買って、”真剣に”競馬新聞を読んで研究している。

競馬場に行けば、「真剣に」赤鉛筆片手に、勝ち馬を研究し、独自のノウハウを持って、勝とうと必死で競馬新聞を読んでいる大勢のファンの姿が目に入ることだろう。

遊びだからといって、適当に馬券を買っている競馬ファンよりも、必死で研究しているファンの姿が目につく。
彼らは、本気で勝とうとしているんだ。

”真剣に”
馬の成績を読んで、パドックを見て、馬券を買っている。
前日に何時間もかけて推理して、勝つ馬を予想しようと”頑張っている”。

実に多くの競馬ファンが、「必死で勉強している」んだ。

しかし、そういう勝ち馬推理を含めて、全ては、趣味的であり、遊びの一環、ということがわかる。


じゃあ、振り返って、

「私は相場で勝つために必死で研究し、勝とうと必死で努力しています。チャートを何時間も見て、相場本も何冊も読んで、勉強し、研究しています。」

という相場ファンも大勢いる。

しかし、チャートを読んで、一生懸命頑張っている投資家とて、先ほどの競馬ファンと何が違うのだろう。

全くといって同じだ。 



「趣味的という話がありましたが、何故そう言えるのでしょう?」

まず、勉強したことと、実際の売買がかけ離れていることが実に多い。

損切りは大切と知っていても、まるでできていない。

エントリーも、きちんと勉強したことと関係のないようなエントリーを感覚的にやる。

感情的になって、リベンジを狙うとか、本で読んだこと以外のことばかりやる。

結局、知識はあっても、全然知識どおりの売買ができていない。

実際の売買となったら、ただ値動きに翻弄されて、右往左往する。

感覚的に、何となく売買をする。いい加減にエントリーする。

つまり、

理屈は知っていても、実践となると感覚的にやる。

それだったら、最初から勉強などする必要などない。

実践でやらないのなら、覚えていても意味がない。

パンの本を何冊読んでも、実践でやらないのなら、読む必要などない。

見ていると、こういう知っているだけの人があまりにも多い。

結局のところ

自分のやりたいようにやっているだけ

なんだ。

感覚的にやりたいようにやる。

だから、結果として”趣味的”になる。

相場を楽しんでやりたい・・・じゃあ趣味ですねってことだ。

自己規律を持つ、ということは、そういう感覚的なものを排除し、やりたくないことをやる。ひたすら我慢する。待って待って待って、辛い売買を繰り返すことになる。

しかし、ほとんどの人は、それができない。

何故なら、真の目的が違うからだ。

趣味で売買しているから、そんな辛いことはしたくない。
やりたいことをやる、心にやさしいことをやるんだ。
デイトレなのに、何日もただ待っている、なんてほとんどの人にはできない。
いい加減な売買でも、回数をやれば”大数の法則”が効いて儲かるようになる、というとんでもない勘違いをしている。

我慢のトレードとは、競馬ファンで言えば、朝の未勝利戦だけ買って、メインレースはやらない、ということと同じ。
趣味でやっているのではく、仕事としてやっている、という自覚を持っている人はほとんどいない。
趣味でやるということは、お金を払うこと。仕事は趣味じゃない。 
 
感覚を排して、自己規律を守るということは、空腹で死にそうなのに、目の前のごちそうを食べないということと同じで、本当に辛い。

趣味的な人は、感覚に従うからそんなことはそもそもやろうともしない。



「退職したら、ボケ防止と老後の楽しみで相場をやりたい、という人が結構いますが、今回の話を聞くと厳しそうですね。」

続く



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相場をやる真の目的とは何か 4

2013/10/13 Sun

相場はギャンブルか、という話題を振ってくれた方がおられますので、せっかくですから連載の話に割り込んで「相場はギャンブルかどうか」を議論することを通じて、

①相場で稼ぐとはどういうことか

②相場の真の目的とは何か

について、考えてみようと思います。



相場がギャンブルかどうか、という議論は、こちらのコメント欄で地味に盛り上がっている博打かどうか、と同じ議論です。

私の見解は、前に書いたように、

相場であれ、競馬であれ、パチンコであれ、対象物によって、博打かどうかを判断するという意見は持っておりません。
対象物が何であっても、どのような目的を持って、どのようにやるか、が博打かどうかの分かれ目だ、と思っています。

この場合の定義は、博打とは、「楽しみのために単なる目先の偶然性に賭ける行為」を意味します。

なので、必然的に、この博打を楽しんでいる人たちが、とても好きなのが、

目先の予想行為

となります。

目の前の相場が上がるか下がるかを必死で当てようとして、予想することは、最も博打的と言える行為です。
当てるやり方を探している人もこれと同様になります。

短期的な予見性を信じて、長期的展望を持たない

ことがこの人たちの特徴でもあります。

とにかく、目先の相場がどうなるか、ということに興味が集中しています。
もしくは、当たるやり方を探す行為に興味が集中している、ということでもあります。

次に相場がどうなるのか、当てることができる、そう信じているわけです。
そして、その自分の立てた予想に賭けて、勝負するわけです。

これは、競馬で競馬新聞を見ながら赤鉛筆片手に必死で予想する競馬ファンと同じです。

次のレースを当てることができる、予想することができる、と信じているからこそ、当てようと努力するわけです。

そして、馬が走ってから、もう応援しても結果になんらの影響もないのに、必死で馬を応援するのです。

客観的に見れば、この行為は、誰が見たって「100%楽しみのために」やっている行為です。

この部分だけは、どんな言い訳も理屈もなく100%遊びの部分です。

実に博打的、ギャンブル的行為の醍醐味でしょう。

この行為は、株を持って相場の上げ下げに一喜一憂している投資家の姿と完全にダブります。

株の上げ下げに場中一喜一憂して、「はぁー、疲れた」って、何もしてねぇじゃねぇか、というよくある話です。

昔は、証券会社の店頭にたむろしているおっさんらのほとんどがこの類でした。

まあ、下がったら放置して、ちょっと儲かったらすぐに利食い、って感じでしたが(笑)


この博打の定義も、それぞれ思っている言葉の定義が違いますから、それだけの話なのかもしれません。
ここで書いたのは、あくまで私なりの定義に過ぎませんので、いろんな見解があって当然です。




相場はギャンブルかどうか、という議論を通じて私の定義から見えてくるのは、

相場を単なるギャンブルにするかどうかは、本人次第だ

ということだと思うのです。

何のために相場をやっているのか、ここをもっと突き詰めて考えることによって、自分が相場をやっている真の目的が見えて来るのではありませんか。

ついつい手を出してしまう。
勉強もしない。
値動きで興奮する。
我慢できない。
値動きにすぐに飛びついてしまう。

などなど、相場を単なる博打行為としてしまう要素は非常に多いです。



この定義に基づくと、もう一方で、非常に少数ですが、次のような人たちの存在が見えてきます。

優位性を持って、期待値を計算し、トータルで勝つことを目的に優位性に賭ける勝負をしている

その勝負というのは、対象物は、競馬であっても、パチンコであっても、それは、利殖行為となります。

いずれもが、先ほどの定義と間反対に、

短期的な偶然性を信じる一方で、長期的な必然性を信じている

ことに違いありません。

目先的には、当たるかどうかなどわからないと明確に理解しています。
ですから、目先の勝ち負けにはこだわりません。
一方で、その勝負を続ければ、最終的には、期待値の値が出るという必然性を信じている、人たちです。

コイントスで、表が出れば+2、裏が出れば-1の勝負をするとき、表に賭け続ける人たちです。

次に表が出るのか、裏が出るのか、それは神のみぞ知る、ですから、短期的には偶然性が支配しているのは当然です。

しかし、この勝負を続ければ、正の期待値が見えているわけですから、トータルでの大数の法則を信じているのです。

逆に言えば、

長期的な必然性を信じながら、偶然性の支配する目先の勝負を続けて行く

ということになります。
しかし、この心の持ちようは、ギャンブル性の反対を行く行為ですから、ものすごく難しく、自己規律が求められるものなんです。
なかなかに、この明鏡止水(荘子)の境地にたどり着ける人は多くありません。
わかっている人でも、目の前の動きに心乱れる、のが普通です。
私もその一人ですが、そうあろうと努力している、といったところでしょう。

目先の勝負を日々こなしながらも、心はそこにあらず。
常に長期的必然性を考える心を持つ、ということです。
 
目先の勝負で、勝ったか負けたかで結果を判断するのではなく「やるべきことができたか」「いらんことをしなかったか」で判断する、ということでもあります。

目先負けてもやるべきだったことがあるし、目先勝ってもやるべきでなかった勝負がある、と考えるのは、全て長期的必然性から判断しているのです。

目先で、当たったかどうか、勝ったか負けたか、ばかりを追いかけて、右往左往している大衆と、時間が経てば差がつくのは当然のことでしょう。

勝てば官軍だ、という人が結構多いですが、そう考えていれば、どうしても目先の勝ち負けを追いかける無間地獄に陥ってしまうのではないかと思うのです。

同じポーカーをやっていても、偶然性を楽しんでいるほとんどのプレイヤーの中に、全ての手の期待値を元に賭けるプロがます。
同じポーカーをしていても、別のゲームをしているのです。


このシリーズも大詰めをむかえていますが、このシリーズを通じて言いたかった結論めいたことを書くと次の通りとなります。

相場は、やりようによっては、ギャンブルにもなるし、利殖の手段にもなる。
多くの人は、相場をギャンブルとして楽しんでいるから儲けることができないでいる一方、一部の人は、相場のギャンブル性を排除して、自己規律を持って利殖の手段にしている。
そもそもの目的が違うのである。
両者は、同じ相場をしていても、全く別のルールによるゲームをしているのである。


勝っても負けても人は皆、相場から自分の欲しいものを手に入れる。 エド・スイコータ


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あらなみ

Author:あらなみ
職業:個別株投機家・専業デイトレーダー

Twitter: @aranami718

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