ヌエの如く
2014/05/06 Tue
■アナと雪の女王
GWはいかがお過ごしでしょうか。
私は、普段会えない友人と会って昼から飲み会をしたりして過ごしていますが、昨日は、映画「アナと雪の女王」を見てきました。
ストーリー展開の早さ、音楽、そして、吹き替えともに、文句のつけようのない一級品のアニメだと思いました。
結構前からの公開ですが、GW中のシネコンでも一番人気で、早々に満席となっていることからも人気の高さが伺えます。
とてもおすすめです。
日本語吹き替えで見ましたが、松たか子&神田沙也加の吹き替えと歌がほんとに素晴らしく、これだけ吹き替えが見事にハマっているのは見たことがありませんでした。
また、私は3Dで見ましたが、3Dもとても自然で意識することなく見ることができます。
通常ですと、映像を出し惜しみして映画に誘導しようとするのですが、この映画は、YouTubで音楽部分などを聞けるようにしていて、ここを先にヒットさせて映画に導く、という逆転の発想をしていることがわかります。
「ありのままで」という歌はとても素晴らしく耳に残る歌でしたが、ちょっとだけ複雑な気持ちで聞いてしまいました。
「ありのままで」トレードするとひどい目に合うからです(笑)
ただし、トレーダー生活は、「ありのままで」を実践できていると言えるのかもしれません。
誰かに束縛されることなく、時間とお金が自由になれば、「ありのままで」を実践できる、という意味では、トレーダーが唯一の職業であるのかもしれない、そう思います。
特に時間的自由というのは、特筆できる特徴でもあります。
トレーダー生活というのは、この雪の女王であるエルザと同じところがあって、自分1人で氷の城に立て籠もって生活している、ということになります。
これが一人暮らしなら、それこそ1週間で人と口を聞いたのは、イオンで「袋いりますか?」「はい」という一言だった、ということにもなりかねません(汗)
エルザというより、「塔の上のラプンツェル」と同じと言った方がいいでしょうかね(笑)
(これもとても素晴らしい作品です。)
毎日毎日、1人で、同じ時間に起きて、PCを立ち上げて、同じようにトレードを繰り返す日々。
まるで、ラプンツェルと同じです・・・
人との接触を求める人にとっては辛い生活かもしれません。
■ヌエ
前の記事には、多くのコメント頂きました。ありがとうございました。
私は、この要諦部分、すなわち、基本となる考え方、相場の基本感、と呼んでいますが、相場哲学、と言う人もいます。
この「家の土台となるべき部分」の考え方が違うとどうなるか、というと、ボタンの掛け違いと同じで、その先は何をやってもずれてくる、わけです。
なかなか相場で勝てない人、には、「共通した基本となる考え方」というものが存在しています。
これは、ご自分では、意識されておられないことがほとんどなので、わからないと思いますが、意識するしないに関わらず間違いなく「基本となる考え方」は存在し、それが負ける人に共通したものである、ということもわかっています。
一方で、「具体的なやり方」については、勝っている人も、負けている人も、似たようなことをやっており、実は、やっていることだけではその人が儲けているのか、負けているのか、判別不可能です。
ブレイクなど順張りをしていか、オーバーシュートを狙っているか、などなど、値動きに対するものなど、相場は上か下かしかないのですから、所詮は知れています。
ところが、相場に対する「基本感」を探ると、「ああ、この人の考え方では勝てないな」ということがすぐにわかります。
つまり、何が勝者と敗者を分けているのか、ということが、多くの人が考えているように「具体的なやり方」には無いということ、これもまた「基本感」の違いってことで(実にややこしい)
いくら努力しても、土台がずれている、ボタンを掛け違っている、わけですから、なかなか成果が上がらない状態が続くことになります。
林先生は、「誤った努力」と表現されていますが、相場の学習プロセスは、受験勉強など通常の学習プロセスとは違う道筋がありますから、そもそも「プロセス違い」ということもあるわけです。
ほとんどの初心者は、資格を取る、だとか、受験する、だとか、そういう「学習プロセス」を正しい、と理解しているので、当然に、というか、「暗黙知」「当たり前としての考え方」として、過去の経験則で積んだ学習プロセスを相場の学習にも取り入れます。
そして、数学や英語の学習で学んだ、「方程式」「公式」を相場にも求めます。
他の教科でも同じでしたが、「まずは方程式を覚えること」が学習であったわけですから、当然の如く方程式を探すわけです。
方程式探し = 学習
であったのだから当然でしょう。
これも、判で押したように同じように、アヒルの子供のごとく、みんなが「公式」を探し、その「公式探しこそが相場の学習だ」と理解しているのです。
ところが、とても残念なことに、相場は公式で表現できるほど、単純ではありません。
その単純でないものを、無理矢理に単純に公式化しようとすることに、そもそも無理があるのですが、それでも、何が何でも単純化して、公式化したい、そう考えているから、永遠に相場の複雑さを理解できないのです。
こうして、せっかくの努力も、「単純化を求める努力となって」それは、求めても答えの無い世界ですから、結果として、ボタンの掛け違いで、ずっとずれたまま、すなわち「負け組の考え方」のままに、その努力の先にはゴールが無いわけです。
初心者の考え方で、最も端的に見えるのがこの「相場を公式化したい、単純化したい」という努力で、これは、そもそも「相場は公式化できるはずだ」という基本的考え方、というより、「勝つためにはそれしかない」という決め付け、が先にあるわけです。
相場は複雑ですよ。
実際。
ほんとに複雑だと思います。
単純な公式が当てはまるわけがない。
理由も単純です。
相場参加者は、その局面局面で全て違うからです。
同じ人が過去と同じように売買することなどあり得ません。
前回、失敗すれば、それを学習しない人などいません。
学習すれば、参加のパターンは違ってくるのです。
同じように繰り返し繰り返し損を出し続ける人も稀にはいますが、自分が学習するのと同じく、人も学習しているものなのです。
だから、私は、相場は、鵺(ぬえ・ヌエ)のようなものだ、という認識をしています。
「ぬえ」とは、その姿顔は猿に似て、胴は狸、足は虎、尻尾が蛇、というわけのわからない妖獣であり、ひいては、「つかみどころがなくて、正体のはっきりしない人物・物事」という意味です。
私の相場認識は、ヌエなのですが、そのヌエを公式化しよう、定型化しよう、単純化しよう、という試みが果たして成功するのかどうか、甚だ疑問なのです。
ヌエを公式化する試みのほとんどは失敗に終わっているという現実が答えでしょう。
それよりも、ヌエをヌエであると認識すること、つまりは、相場の複雑性を理解し、それでも、そこで、経験値を積んで、土地勘であるとか、ヌエの隙を探す目利きをつける、だとかしたほうが公式化する試みよりも近道ではないのか、そう考えています。
特に、経験値として「土地勘」ということは非常に大きく、はじめて行ったスーパーで迷子になるのと、日頃行っているスーパーでどこに何があるのか知っている、違い、というのは非常に大きいことだ、と記しておきましょう。
特に、4000銘柄近くある個別株市場においては、この土地勘の果たす役割はものすごく大きいのです。
ですから、相場を単純化して方程式に置き換えようとする学校方式の勉強プロセスを見なおして、職人さんとしての腕をつけるべく、複雑な相場を複雑なものと受け止めて、繰り返しの経験値を積む努力に置き換えたらどうか、というのが、私の経験から言えることでもあるのです。

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GWはいかがお過ごしでしょうか。
私は、普段会えない友人と会って昼から飲み会をしたりして過ごしていますが、昨日は、映画「アナと雪の女王」を見てきました。
ストーリー展開の早さ、音楽、そして、吹き替えともに、文句のつけようのない一級品のアニメだと思いました。
結構前からの公開ですが、GW中のシネコンでも一番人気で、早々に満席となっていることからも人気の高さが伺えます。
とてもおすすめです。
日本語吹き替えで見ましたが、松たか子&神田沙也加の吹き替えと歌がほんとに素晴らしく、これだけ吹き替えが見事にハマっているのは見たことがありませんでした。
また、私は3Dで見ましたが、3Dもとても自然で意識することなく見ることができます。
通常ですと、映像を出し惜しみして映画に誘導しようとするのですが、この映画は、YouTubで音楽部分などを聞けるようにしていて、ここを先にヒットさせて映画に導く、という逆転の発想をしていることがわかります。
「ありのままで」という歌はとても素晴らしく耳に残る歌でしたが、ちょっとだけ複雑な気持ちで聞いてしまいました。
「ありのままで」トレードするとひどい目に合うからです(笑)
ただし、トレーダー生活は、「ありのままで」を実践できていると言えるのかもしれません。
誰かに束縛されることなく、時間とお金が自由になれば、「ありのままで」を実践できる、という意味では、トレーダーが唯一の職業であるのかもしれない、そう思います。
特に時間的自由というのは、特筆できる特徴でもあります。
トレーダー生活というのは、この雪の女王であるエルザと同じところがあって、自分1人で氷の城に立て籠もって生活している、ということになります。
これが一人暮らしなら、それこそ1週間で人と口を聞いたのは、イオンで「袋いりますか?」「はい」という一言だった、ということにもなりかねません(汗)
エルザというより、「塔の上のラプンツェル」と同じと言った方がいいでしょうかね(笑)
(これもとても素晴らしい作品です。)
毎日毎日、1人で、同じ時間に起きて、PCを立ち上げて、同じようにトレードを繰り返す日々。
まるで、ラプンツェルと同じです・・・
人との接触を求める人にとっては辛い生活かもしれません。
■ヌエ
前の記事には、多くのコメント頂きました。ありがとうございました。
私は、この要諦部分、すなわち、基本となる考え方、相場の基本感、と呼んでいますが、相場哲学、と言う人もいます。
この「家の土台となるべき部分」の考え方が違うとどうなるか、というと、ボタンの掛け違いと同じで、その先は何をやってもずれてくる、わけです。
なかなか相場で勝てない人、には、「共通した基本となる考え方」というものが存在しています。
これは、ご自分では、意識されておられないことがほとんどなので、わからないと思いますが、意識するしないに関わらず間違いなく「基本となる考え方」は存在し、それが負ける人に共通したものである、ということもわかっています。
一方で、「具体的なやり方」については、勝っている人も、負けている人も、似たようなことをやっており、実は、やっていることだけではその人が儲けているのか、負けているのか、判別不可能です。
ブレイクなど順張りをしていか、オーバーシュートを狙っているか、などなど、値動きに対するものなど、相場は上か下かしかないのですから、所詮は知れています。
ところが、相場に対する「基本感」を探ると、「ああ、この人の考え方では勝てないな」ということがすぐにわかります。
つまり、何が勝者と敗者を分けているのか、ということが、多くの人が考えているように「具体的なやり方」には無いということ、これもまた「基本感」の違いってことで(実にややこしい)
いくら努力しても、土台がずれている、ボタンを掛け違っている、わけですから、なかなか成果が上がらない状態が続くことになります。
林先生は、「誤った努力」と表現されていますが、相場の学習プロセスは、受験勉強など通常の学習プロセスとは違う道筋がありますから、そもそも「プロセス違い」ということもあるわけです。
ほとんどの初心者は、資格を取る、だとか、受験する、だとか、そういう「学習プロセス」を正しい、と理解しているので、当然に、というか、「暗黙知」「当たり前としての考え方」として、過去の経験則で積んだ学習プロセスを相場の学習にも取り入れます。
そして、数学や英語の学習で学んだ、「方程式」「公式」を相場にも求めます。
他の教科でも同じでしたが、「まずは方程式を覚えること」が学習であったわけですから、当然の如く方程式を探すわけです。
方程式探し = 学習
であったのだから当然でしょう。
これも、判で押したように同じように、アヒルの子供のごとく、みんなが「公式」を探し、その「公式探しこそが相場の学習だ」と理解しているのです。
ところが、とても残念なことに、相場は公式で表現できるほど、単純ではありません。
その単純でないものを、無理矢理に単純に公式化しようとすることに、そもそも無理があるのですが、それでも、何が何でも単純化して、公式化したい、そう考えているから、永遠に相場の複雑さを理解できないのです。
こうして、せっかくの努力も、「単純化を求める努力となって」それは、求めても答えの無い世界ですから、結果として、ボタンの掛け違いで、ずっとずれたまま、すなわち「負け組の考え方」のままに、その努力の先にはゴールが無いわけです。
初心者の考え方で、最も端的に見えるのがこの「相場を公式化したい、単純化したい」という努力で、これは、そもそも「相場は公式化できるはずだ」という基本的考え方、というより、「勝つためにはそれしかない」という決め付け、が先にあるわけです。
相場は複雑ですよ。
実際。
ほんとに複雑だと思います。
単純な公式が当てはまるわけがない。
理由も単純です。
相場参加者は、その局面局面で全て違うからです。
同じ人が過去と同じように売買することなどあり得ません。
前回、失敗すれば、それを学習しない人などいません。
学習すれば、参加のパターンは違ってくるのです。
同じように繰り返し繰り返し損を出し続ける人も稀にはいますが、自分が学習するのと同じく、人も学習しているものなのです。
だから、私は、相場は、鵺(ぬえ・ヌエ)のようなものだ、という認識をしています。
「ぬえ」とは、その姿顔は猿に似て、胴は狸、足は虎、尻尾が蛇、というわけのわからない妖獣であり、ひいては、「つかみどころがなくて、正体のはっきりしない人物・物事」という意味です。
私の相場認識は、ヌエなのですが、そのヌエを公式化しよう、定型化しよう、単純化しよう、という試みが果たして成功するのかどうか、甚だ疑問なのです。
ヌエを公式化する試みのほとんどは失敗に終わっているという現実が答えでしょう。
それよりも、ヌエをヌエであると認識すること、つまりは、相場の複雑性を理解し、それでも、そこで、経験値を積んで、土地勘であるとか、ヌエの隙を探す目利きをつける、だとかしたほうが公式化する試みよりも近道ではないのか、そう考えています。
特に、経験値として「土地勘」ということは非常に大きく、はじめて行ったスーパーで迷子になるのと、日頃行っているスーパーでどこに何があるのか知っている、違い、というのは非常に大きいことだ、と記しておきましょう。
特に、4000銘柄近くある個別株市場においては、この土地勘の果たす役割はものすごく大きいのです。
ですから、相場を単純化して方程式に置き換えようとする学校方式の勉強プロセスを見なおして、職人さんとしての腕をつけるべく、複雑な相場を複雑なものと受け止めて、繰り返しの経験値を積む努力に置き換えたらどうか、というのが、私の経験から言えることでもあるのです。

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