職人の本分
2014/07/06 Sun
いつも拍手ありがとうございます。
やはりこうやって共感してもらえると記事を書いていて嬉しくなります。
■呼吸法入門・・・1
せっかくですので、呼吸法の話も書きたいと思います。
私は、西野流呼吸法を習ってもう24年目になります。
ただ、ここで書くのは、西野流で習ったことではない、ということをまず書いておきます。
あくまでも私流の呼吸法です。
さて、呼吸法、気功、というと、まず、みんなが思い浮かべることは、太極拳であるとかの「形」だと思います。
西野流にも、「華輪」であるとか、様々な型があるわけです。
当然、外から見ていれば、形しか見えないわけですから、「どういうやり方」という形に目が行くのは仕方がないのですが、呼吸法、気功にとって重要なのは形ではありません。
では、何が重要か、というと「意守」という概念となります。
意守とは何か、というと、簡単に書くと「体のどこかの部位を意識する」ということです。
記念すべき第一回目なので、何をまずは意守すべきかというと、それは「呼吸を意守する」こと、です。
呼吸というのは、基本は意識しないでも、勝手にできています。
その勝手に呼吸している状態を「意識」するわけです。
その場合、①深呼吸するとかではない、②ただ呼吸していることを観察するだけだ、ということがポイントです。
何かを感じる必要はないですし、特別なことをする必要はありません。
ただ、普通に自然に呼吸している自分を意識すればいい、ということです。
ところが、これが意外と難しいのです。
つい変に呼吸してみたり、1分ぐらいなら意識できても、それ以上になると、つい別のことを考えたりしてしまいます。
一度、3分~5分ぐらい、呼吸している自分を観察してみてください。
これによって得られる一番大きなことは、「今にある」といことです。
人は、過去のことを考えるか、未来の心配をするか、どちらかを常に考えています。
つまり、人というのは、常に今に生きないで、過去の反省と、未来の心配事に今を使っているのです。
このままだと、死ぬ瞬間まで、未来の心配事で終わるのでしょうか。
ちなみに、余談ですが、我が家には、2年半以上生きているハムスターがいます。
平均寿命が2年ですから、もうかなりの長生きです。
飼い主の人間は、いつ死ぬのか、いつ死ぬのか、と心配をしています。
しかし、彼は、「寿命を超えているからもう死ぬかもしれない」と心配しながら生きているということはありません。
彼はいつも「今やりたいことをやって、今を生きている」のです。
彼は人よりも下等なのかもしれませんが、生き方としては「今をしっかり生きています」から、人よりも上の「ハム生」かもしれないと思います。
今日が仮に最後の1日だったとしても、彼だったら、今日生きているということにフォーカスし、今生きているということに喜びを見出して、楽しく生きるのでしょう。
明日の心配ばかりをしている愚かな人間どもよりも、よほど幸せな人生ならぬ「ハム生」だなあ、と彼を見ていて思います。
人は実に愚かです。
明日の心配をし続けて、一生を終えるのですから・・・
私も、ハムスターを見習いたいものだ、といつも思っています。
その「ハムスターの教え」を如何に実践するのか、という話です(笑)
実は、意識を今に持ってくるということは非常に難しいのです。
人はハムスターじゃないからです(笑)
いらんことをいつも考えてしまうのです。
しかし、「あなたは今何をしていますか」と質問されれば「呼吸している」というのが的確な答えでしょう。
生きるために呼吸している、それが今やっていることです。
「今自分はこうやって生きている」これは、過去も未来の心配事も関係なく、今はとにかくこうやって生きているのだ、という実感なんです。
そして、もう一つ重要なことは、「人は2つのことを同時に考えることができない」ということです。
例えば、寝付く時「今日はああだった、あいつは我慢ならない、腹が立つ、失敗した、明日はどうしよう」などなど、人は悩みが尽きません。
全て、過去か未来のために今の幸福な寝付きの時間を台無しにしているわけです。
寝付きの悪い人は、いらんことをああだこーだ、と考えるものです。
その寝付く今とはどういう状態でしょう。
「今にある」ということは、温かい布団に入った幸福の時間・・・ただそれだけです。
世の中には、暖かい寝床で寝れない人が大勢いて、今日という一日を終えることができず死んでいった人たちが世界には統計上15万人もいるのです。
暖かい寝床に入れたということは実に幸運です。それに比べればしょうもない心配事など実はどうでもいいことなんです。
しかし、それでも雑念が邪魔をするのなら、「一心に呼吸に意識を集中することで今の自分を取り戻す」ことができます。
つまり、「人は2つのことを同時に考えることができない」のですから、それを利用して、呼吸に意識を集中すれば「今幸福な寝床に入れた」状態で寝付くことができるわけです。
これは、瞑想状態である、とも言えます。
トレード時においても同様で、あーだこーだと色んな心配事で心が乱れるわけですが、その時に、「人は2つのことを同時に考えることができない」ということを利用して、呼吸に意識を集中すれば、あっという間に「意識を心配事から遠ざけること」ができるようになります。
「吐いて、吸って、吐いて、吸って」と意識を戻せば、いつでも「今に戻れる」、つまり、
今に戻るための超強力なリセットボタン
それが、「呼吸の意守」なんです。
■職人の本分
さて、本題に移りましょう。
相場においては、「やり方至上主義」というのは、とにかく超強力なので、人と話していても、常にこの壁に阻まれます。
この思い込みはとにかく強力で、これ以外の重要性をまるで感じないので、それ以外は何も耳に入りません。
そうじゃない、ということはなかなかに理解しがたいことなのでしょう。
今回は、多少はわかりやすくなるかと事例を紐解いてみます。
私は、トレーダーも職人の一種だと考えています。
これまでの記事を読んでもらっている方ならとっくにこの私の思考パターンは理解してもらっていることでしょう。
それは、その上達のプロセスが同じだからなのですが、ところが、そこが一番理解してもらえないところです。
つい先日もこのことを思い知らされることがあって、つくづく「やり方至上主義」について考えさせられました。
とにかく、多くの人は、
トレードとは、どこかに正解があって、その答えを探すものだ、という理解をしているので、その正解探しがトレードの学習なのだ、と考えています。
そして、その正解とやらが見つかったら、即座に利益が出る、と思い込んでいます。
逆に言うと、その正解とやらが見つからない限りは、トレードで利益が出ない、という思い込みもあります。
1000本ノック、とここで書いても、それを「正解を探すための手段」と理解している人がとても多いのです。
というより、そもそも何でもかんでも正解探し、というのが通常なので、そうなることは当たり前といえば当たり前なんですが。
今は、どのテレビ番組を見ても、クイズ全盛ですから、如何に多くの人が、答え、ということにこだわっているのか、がわかる社会現象だと思います。
そして、芸能人でも有名○○大学卒業というと、「賢い」となって、どうでもいい雑学知識の多さをクイズで競う、そして、その知識が多ければ多いほど、「この人は頭が良い」というアホな定義がまかり通っています。
私が思うのは、お笑いなら、お笑いで勝負するのが本分で、お笑いで成功することが頭がいいってことじゃないのか、と思うのです。・
まあ、お笑いの才能はなくても、クイズタレントとして生きているのだから、それはそれで才能なのだろう、とは思うのですが(笑)
こういうことを考えていきたいと思います。
まともにトレードのことを書いても理解されないので、視点をずらします。
大工。
宮大工さんもいれば、注文建築の大工さんもいます。
ここでは、木造建築の大工さんとしましょう。
大切なのは何かというと、①素材である木、②職人の腕、③大工道具、の順でしょう。
いくら腕のいい大工でも、腐った木ではいい家は建ちません。
しかし、いい木が入ったとしても、腕の悪い大工なら、やはりいい家は建ちません。
といって、カンナやノコなどといった道具もいい加減なものなら、やはりいい家は建ちません。
ここで、いい職人になるために、大工にとって、時間を使うべきは、どこにあるのでしょう。
いい素材を見極めるための目を養うことか、木を削ったり、切ったり、家のイメージ、手順などを理解する腕を磨くことか、いい大工道具を探すことか。
みんな大切ですが、一番時間をかけるべきは、やはり腕を磨くことにあるでしょう。
しかも、この腕磨きは、本を読んで勉強する、という類ではなく、実際に家を建てるという行為を通じて、実践で学ぶことが重要となります。
もし、これを怠って、「良い道具探しばかりをしている大工」だとしたらどういうことが起こるでしょう。
もちろん、いいカンナ、いいノコ、は大切なんです。
しかし、大工職人の腕は、それだけで決まるということは絶対にありません。
良い道具を手に入れて、それを毎日毎日手入れして、使いこなす、ということはもちろん大切ですが、それは家を建てるための道具に過ぎません。
その道具が、大工の良し悪しを決める決定的要因にはなり得ないのです。
いいカンナを見つけ出すことが正解だ、という理解は大工としてズレています。
日本料理料理人だとします。
料理人にとってその実力を左右するのは、①食材の目利き、②調理の腕、③調理道具、でしょう。
大工との違いは、料理人にとっては、大工よりも、より「素材の目利き」が重要度を増してきます。
「素材のよさには勝てない」からです。
そして、出汁の取り方、焼き加減、などなど、調理の腕が試されます。
もちろん、調理道具も大切です。
「包丁一本さらしに巻いて」ということで、自分の包丁へのこだわり、道具の手入れ、プロであればあるほど、大切にしているところです。
しかし、「切れる包丁を求めてばかりいる料理人」が成功できるでしょうか。
いい包丁さえあれば、一流の料理人になれる、と思っている料理人は皆無でしょう。
もちろん、切れる包丁を探す時間も必要です。
しかし、それよりも、調理の腕を磨いたり、食材の目利きを上げる努力こそが本分ではないでしょうか。
料理を学ぶ、ということは、何に時間を使うべきなのか、ということです。
包丁探しにばかり時間を使っていてはどうなるのか、ということです。
そして、学ぶ、といっても、学校のお勉強と同じように考えていては問題が起きる、ということです。
料理人も、本で調理方法を勉強する、ということももちろんあります。
知識をつける、ということも大切でしょう。
というか、
本による知識の習得など当たり前の第一ステップであり、単なる入り口
に過ぎません。
そんなこと、ほとんど時間もかからずに誰にでもやれてしまうことでしょう。
これでわかったような気になること自体がおかしいんです。
本を読んで一流になれるのなら、100人が100人全員が一流の料理人ですよ。
それよりも、実際に調理場に立って調理を実践して学ぶということが時間がかかることですし、仕入れも、毎日築地に通うことをつうじて、「土地勘」を付けて、「経験値」を上げて、ひいては時間をかけて目利きをつける、という手順をたどるものです。
そして、出汁の取り方一つにしても、毎日毎日繰り返して、失敗を続けて、そして、次第にわかってくる、というプロセスをたどります。
1年や2年っていうのは、まだひよっこレベルで、5年、10年という時間のかかり方をするのは当然でしょう。
本には書いてあるんですよ。
みんなこんなこと。
調理本を読めばみんな知識としてはわかることです。
調理本を読めば、1日、2日もすれば、一流の料理人とほとんど同じ理屈はわかるんです。
逆に言いましょう。
こんな基礎的知識すら持っていない料理人など新人でもいません。
そして、本を読んで、知識を得たからといって、「俺は一流だ」と思う新人も1人もいないでしょう。
知識を得たからといってそんなことを思う料理人がいたなら、そいつはただのアホです。
そもそも知っていることとやれることは全然別の次元の話です。
それと、意外と見落とされているのは、素材の目利きだと思います。
あまり意識されないことも多いですが、非常に重要です。
「素材のよさには勝てない」のですから、いくら腕のある料理人であっても、素材がダメなら、美味しい料理はできませんし、偶然にも素晴らしい素材に当たれば、「俺は一流になった」と本人が誤解するほどの料理が作れてしまうものです。
本当にいい素材なら、ちょっと塩味だけで焼くだけの料理でも、切って出すだけでも、とにかく美味しい料理に仕上がってしまいます。
しかし、だからといって、
その素材は、あんたが見つけてきたのではなく、たまたまぶち当たっただけだ
ということがほとんどなので、目利きがついた、だとか、腕が上がった、というのは本来おこがましいことなのですが、本人は至って、カリスマ料理人になった気になっていますから、後で痛い目に合うわけです。
一方でこういう世界もあります。
プレハブ建築
回転寿司屋
同じ、家を提供しています。
同じ、寿司を提供しています。
ただ、大工の延長線上にプレハブ建築はありません。
また、日本料理の職人の延長線上にも回転寿司屋はありません。
プレハブ建築も回転寿司屋も、コツは、工場大量生産にあります。
その工場では、大型の機械化された道具によって、徹底した効率的機械化が追求されています。
作業員の腕などここでは関係ありません。
目利きも、そもそも必要ないように品質管理された工場生産品として扱われます。
そこで作業する作業員には、目利きも腕も必要とはされないのです。
とことんの道具による機械化がなされているのです。
全く違う世界です。
職人技の延長線上にはないんです。
ここもわかっておかないといけないことではないのか、と思うところです。
ここをごっちゃにしている人が非常に多いこともとても気になっているところなんです。
逆に言いましょう。
工場でのラボの研究の延長線上に職人がいる、ということなどあり得ません。
お互い相容れない、と言っても言い過ぎではないぐらいの距離があるのです。
ここについて、実に中途半端なアプローチをしている人が多いことがわかっています。
一体、何をしたいのか、なんちゃって検証、なんちゃって裁量、みたいな実に中途半端なことを繰り返している人たちです。
専門的にやっても厳しい世界なのですから、中途半端さは、結局、どっちつかずになって、成果が全く得られないことになるのです。
そしてさらにわかっておかないといけないこと。
大工、寿司職人、ともに、
一流でなくても、曲がりなりにもそれを仕事としてなんとかかんとか食ってはいける、ってことです。
もちろん、収入は低いかもしれませんけど、マイナスにはなりません。
ここが私の世界との大きな違いなのです。

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やはりこうやって共感してもらえると記事を書いていて嬉しくなります。
■呼吸法入門・・・1
せっかくですので、呼吸法の話も書きたいと思います。
私は、西野流呼吸法を習ってもう24年目になります。
ただ、ここで書くのは、西野流で習ったことではない、ということをまず書いておきます。
あくまでも私流の呼吸法です。
さて、呼吸法、気功、というと、まず、みんなが思い浮かべることは、太極拳であるとかの「形」だと思います。
西野流にも、「華輪」であるとか、様々な型があるわけです。
当然、外から見ていれば、形しか見えないわけですから、「どういうやり方」という形に目が行くのは仕方がないのですが、呼吸法、気功にとって重要なのは形ではありません。
では、何が重要か、というと「意守」という概念となります。
意守とは何か、というと、簡単に書くと「体のどこかの部位を意識する」ということです。
記念すべき第一回目なので、何をまずは意守すべきかというと、それは「呼吸を意守する」こと、です。
呼吸というのは、基本は意識しないでも、勝手にできています。
その勝手に呼吸している状態を「意識」するわけです。
その場合、①深呼吸するとかではない、②ただ呼吸していることを観察するだけだ、ということがポイントです。
何かを感じる必要はないですし、特別なことをする必要はありません。
ただ、普通に自然に呼吸している自分を意識すればいい、ということです。
ところが、これが意外と難しいのです。
つい変に呼吸してみたり、1分ぐらいなら意識できても、それ以上になると、つい別のことを考えたりしてしまいます。
一度、3分~5分ぐらい、呼吸している自分を観察してみてください。
これによって得られる一番大きなことは、「今にある」といことです。
人は、過去のことを考えるか、未来の心配をするか、どちらかを常に考えています。
つまり、人というのは、常に今に生きないで、過去の反省と、未来の心配事に今を使っているのです。
このままだと、死ぬ瞬間まで、未来の心配事で終わるのでしょうか。
ちなみに、余談ですが、我が家には、2年半以上生きているハムスターがいます。
平均寿命が2年ですから、もうかなりの長生きです。
飼い主の人間は、いつ死ぬのか、いつ死ぬのか、と心配をしています。
しかし、彼は、「寿命を超えているからもう死ぬかもしれない」と心配しながら生きているということはありません。
彼はいつも「今やりたいことをやって、今を生きている」のです。
彼は人よりも下等なのかもしれませんが、生き方としては「今をしっかり生きています」から、人よりも上の「ハム生」かもしれないと思います。
今日が仮に最後の1日だったとしても、彼だったら、今日生きているということにフォーカスし、今生きているということに喜びを見出して、楽しく生きるのでしょう。
明日の心配ばかりをしている愚かな人間どもよりも、よほど幸せな人生ならぬ「ハム生」だなあ、と彼を見ていて思います。
人は実に愚かです。
明日の心配をし続けて、一生を終えるのですから・・・
私も、ハムスターを見習いたいものだ、といつも思っています。
その「ハムスターの教え」を如何に実践するのか、という話です(笑)
実は、意識を今に持ってくるということは非常に難しいのです。
人はハムスターじゃないからです(笑)
いらんことをいつも考えてしまうのです。
しかし、「あなたは今何をしていますか」と質問されれば「呼吸している」というのが的確な答えでしょう。
生きるために呼吸している、それが今やっていることです。
「今自分はこうやって生きている」これは、過去も未来の心配事も関係なく、今はとにかくこうやって生きているのだ、という実感なんです。
そして、もう一つ重要なことは、「人は2つのことを同時に考えることができない」ということです。
例えば、寝付く時「今日はああだった、あいつは我慢ならない、腹が立つ、失敗した、明日はどうしよう」などなど、人は悩みが尽きません。
全て、過去か未来のために今の幸福な寝付きの時間を台無しにしているわけです。
寝付きの悪い人は、いらんことをああだこーだ、と考えるものです。
その寝付く今とはどういう状態でしょう。
「今にある」ということは、温かい布団に入った幸福の時間・・・ただそれだけです。
世の中には、暖かい寝床で寝れない人が大勢いて、今日という一日を終えることができず死んでいった人たちが世界には統計上15万人もいるのです。
暖かい寝床に入れたということは実に幸運です。それに比べればしょうもない心配事など実はどうでもいいことなんです。
しかし、それでも雑念が邪魔をするのなら、「一心に呼吸に意識を集中することで今の自分を取り戻す」ことができます。
つまり、「人は2つのことを同時に考えることができない」のですから、それを利用して、呼吸に意識を集中すれば「今幸福な寝床に入れた」状態で寝付くことができるわけです。
これは、瞑想状態である、とも言えます。
トレード時においても同様で、あーだこーだと色んな心配事で心が乱れるわけですが、その時に、「人は2つのことを同時に考えることができない」ということを利用して、呼吸に意識を集中すれば、あっという間に「意識を心配事から遠ざけること」ができるようになります。
「吐いて、吸って、吐いて、吸って」と意識を戻せば、いつでも「今に戻れる」、つまり、
今に戻るための超強力なリセットボタン
それが、「呼吸の意守」なんです。
■職人の本分
さて、本題に移りましょう。
相場においては、「やり方至上主義」というのは、とにかく超強力なので、人と話していても、常にこの壁に阻まれます。
この思い込みはとにかく強力で、これ以外の重要性をまるで感じないので、それ以外は何も耳に入りません。
そうじゃない、ということはなかなかに理解しがたいことなのでしょう。
今回は、多少はわかりやすくなるかと事例を紐解いてみます。
私は、トレーダーも職人の一種だと考えています。
これまでの記事を読んでもらっている方ならとっくにこの私の思考パターンは理解してもらっていることでしょう。
それは、その上達のプロセスが同じだからなのですが、ところが、そこが一番理解してもらえないところです。
つい先日もこのことを思い知らされることがあって、つくづく「やり方至上主義」について考えさせられました。
とにかく、多くの人は、
トレードとは、どこかに正解があって、その答えを探すものだ、という理解をしているので、その正解探しがトレードの学習なのだ、と考えています。
そして、その正解とやらが見つかったら、即座に利益が出る、と思い込んでいます。
逆に言うと、その正解とやらが見つからない限りは、トレードで利益が出ない、という思い込みもあります。
1000本ノック、とここで書いても、それを「正解を探すための手段」と理解している人がとても多いのです。
というより、そもそも何でもかんでも正解探し、というのが通常なので、そうなることは当たり前といえば当たり前なんですが。
今は、どのテレビ番組を見ても、クイズ全盛ですから、如何に多くの人が、答え、ということにこだわっているのか、がわかる社会現象だと思います。
そして、芸能人でも有名○○大学卒業というと、「賢い」となって、どうでもいい雑学知識の多さをクイズで競う、そして、その知識が多ければ多いほど、「この人は頭が良い」というアホな定義がまかり通っています。
私が思うのは、お笑いなら、お笑いで勝負するのが本分で、お笑いで成功することが頭がいいってことじゃないのか、と思うのです。・
まあ、お笑いの才能はなくても、クイズタレントとして生きているのだから、それはそれで才能なのだろう、とは思うのですが(笑)
こういうことを考えていきたいと思います。
まともにトレードのことを書いても理解されないので、視点をずらします。
大工。
宮大工さんもいれば、注文建築の大工さんもいます。
ここでは、木造建築の大工さんとしましょう。
大切なのは何かというと、①素材である木、②職人の腕、③大工道具、の順でしょう。
いくら腕のいい大工でも、腐った木ではいい家は建ちません。
しかし、いい木が入ったとしても、腕の悪い大工なら、やはりいい家は建ちません。
といって、カンナやノコなどといった道具もいい加減なものなら、やはりいい家は建ちません。
ここで、いい職人になるために、大工にとって、時間を使うべきは、どこにあるのでしょう。
いい素材を見極めるための目を養うことか、木を削ったり、切ったり、家のイメージ、手順などを理解する腕を磨くことか、いい大工道具を探すことか。
みんな大切ですが、一番時間をかけるべきは、やはり腕を磨くことにあるでしょう。
しかも、この腕磨きは、本を読んで勉強する、という類ではなく、実際に家を建てるという行為を通じて、実践で学ぶことが重要となります。
もし、これを怠って、「良い道具探しばかりをしている大工」だとしたらどういうことが起こるでしょう。
もちろん、いいカンナ、いいノコ、は大切なんです。
しかし、大工職人の腕は、それだけで決まるということは絶対にありません。
良い道具を手に入れて、それを毎日毎日手入れして、使いこなす、ということはもちろん大切ですが、それは家を建てるための道具に過ぎません。
その道具が、大工の良し悪しを決める決定的要因にはなり得ないのです。
いいカンナを見つけ出すことが正解だ、という理解は大工としてズレています。
日本料理料理人だとします。
料理人にとってその実力を左右するのは、①食材の目利き、②調理の腕、③調理道具、でしょう。
大工との違いは、料理人にとっては、大工よりも、より「素材の目利き」が重要度を増してきます。
「素材のよさには勝てない」からです。
そして、出汁の取り方、焼き加減、などなど、調理の腕が試されます。
もちろん、調理道具も大切です。
「包丁一本さらしに巻いて」ということで、自分の包丁へのこだわり、道具の手入れ、プロであればあるほど、大切にしているところです。
しかし、「切れる包丁を求めてばかりいる料理人」が成功できるでしょうか。
いい包丁さえあれば、一流の料理人になれる、と思っている料理人は皆無でしょう。
もちろん、切れる包丁を探す時間も必要です。
しかし、それよりも、調理の腕を磨いたり、食材の目利きを上げる努力こそが本分ではないでしょうか。
料理を学ぶ、ということは、何に時間を使うべきなのか、ということです。
包丁探しにばかり時間を使っていてはどうなるのか、ということです。
そして、学ぶ、といっても、学校のお勉強と同じように考えていては問題が起きる、ということです。
料理人も、本で調理方法を勉強する、ということももちろんあります。
知識をつける、ということも大切でしょう。
というか、
本による知識の習得など当たり前の第一ステップであり、単なる入り口
に過ぎません。
そんなこと、ほとんど時間もかからずに誰にでもやれてしまうことでしょう。
これでわかったような気になること自体がおかしいんです。
本を読んで一流になれるのなら、100人が100人全員が一流の料理人ですよ。
それよりも、実際に調理場に立って調理を実践して学ぶということが時間がかかることですし、仕入れも、毎日築地に通うことをつうじて、「土地勘」を付けて、「経験値」を上げて、ひいては時間をかけて目利きをつける、という手順をたどるものです。
そして、出汁の取り方一つにしても、毎日毎日繰り返して、失敗を続けて、そして、次第にわかってくる、というプロセスをたどります。
1年や2年っていうのは、まだひよっこレベルで、5年、10年という時間のかかり方をするのは当然でしょう。
本には書いてあるんですよ。
みんなこんなこと。
調理本を読めばみんな知識としてはわかることです。
調理本を読めば、1日、2日もすれば、一流の料理人とほとんど同じ理屈はわかるんです。
逆に言いましょう。
こんな基礎的知識すら持っていない料理人など新人でもいません。
そして、本を読んで、知識を得たからといって、「俺は一流だ」と思う新人も1人もいないでしょう。
知識を得たからといってそんなことを思う料理人がいたなら、そいつはただのアホです。
そもそも知っていることとやれることは全然別の次元の話です。
それと、意外と見落とされているのは、素材の目利きだと思います。
あまり意識されないことも多いですが、非常に重要です。
「素材のよさには勝てない」のですから、いくら腕のある料理人であっても、素材がダメなら、美味しい料理はできませんし、偶然にも素晴らしい素材に当たれば、「俺は一流になった」と本人が誤解するほどの料理が作れてしまうものです。
本当にいい素材なら、ちょっと塩味だけで焼くだけの料理でも、切って出すだけでも、とにかく美味しい料理に仕上がってしまいます。
しかし、だからといって、
その素材は、あんたが見つけてきたのではなく、たまたまぶち当たっただけだ
ということがほとんどなので、目利きがついた、だとか、腕が上がった、というのは本来おこがましいことなのですが、本人は至って、カリスマ料理人になった気になっていますから、後で痛い目に合うわけです。
一方でこういう世界もあります。
プレハブ建築
回転寿司屋
同じ、家を提供しています。
同じ、寿司を提供しています。
ただ、大工の延長線上にプレハブ建築はありません。
また、日本料理の職人の延長線上にも回転寿司屋はありません。
プレハブ建築も回転寿司屋も、コツは、工場大量生産にあります。
その工場では、大型の機械化された道具によって、徹底した効率的機械化が追求されています。
作業員の腕などここでは関係ありません。
目利きも、そもそも必要ないように品質管理された工場生産品として扱われます。
そこで作業する作業員には、目利きも腕も必要とはされないのです。
とことんの道具による機械化がなされているのです。
全く違う世界です。
職人技の延長線上にはないんです。
ここもわかっておかないといけないことではないのか、と思うところです。
ここをごっちゃにしている人が非常に多いこともとても気になっているところなんです。
逆に言いましょう。
工場でのラボの研究の延長線上に職人がいる、ということなどあり得ません。
お互い相容れない、と言っても言い過ぎではないぐらいの距離があるのです。
ここについて、実に中途半端なアプローチをしている人が多いことがわかっています。
一体、何をしたいのか、なんちゃって検証、なんちゃって裁量、みたいな実に中途半端なことを繰り返している人たちです。
専門的にやっても厳しい世界なのですから、中途半端さは、結局、どっちつかずになって、成果が全く得られないことになるのです。
そしてさらにわかっておかないといけないこと。
大工、寿司職人、ともに、
一流でなくても、曲がりなりにもそれを仕事としてなんとかかんとか食ってはいける、ってことです。
もちろん、収入は低いかもしれませんけど、マイナスにはなりません。
ここが私の世界との大きな違いなのです。

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