調理場という戦場
2014/09/07 Sun
この本、実は本のタイトルだけで買ってしまいました。
調理場という戦場―「コート・ドール」斉須政雄の仕事論 (幻冬舎文庫)
タイトルだけでもうやられてしまいましたが、実際に読んでみると、中身も実によいことが書いてありましたので、少しばかりおすそ分けしておきましょう。
ひとつひとつの工程を丁寧にクリアしていなければ、大切な料理を当たり前に作ることができない。大きなことだけをやろうとしていても、ひとつずつの行動が伴わない。
裾野が広がっていない山は高くない。
若い人であっても意識のブヨブヨしたいやらしいところを持っている人がいますから、それを見かけた場合には、ぼくは、徹底的にやっつけますね。年齢が若いからとか経験が少ないからということで、情けをかける気はないのです。
ぼくが怒るのは、精神的な姿勢のことだから。
技術的なことで間違った、それを厳しく言うことはありません。壊そうと思って壊す人はいない。失敗しようと思って失敗する人はいない。それは問いません。
窮地に陥ってどうしようもない時ほど、日常生活でやってきた下地があからさまに出てくる。
今の「コート・ドール」のチームメイトにも、ぼくは「たいへんだと思っても、続けるんだ」と言っています。続けると、いろいろわかってくる、だから頑張る。
料理人は天性や才能によって創造的な仕事をするように思われています。だけどほんとうの料理人のすばらしさというものは、どれだけ努力をしてどれだけ実地の経験を積んだかで決まります。
味の基準がわからない時には、毎日作るというのもひとつの手です。なぜなら、味の基準を見極められない人に抽象的に教えることはできないからです。味つけの具体的な経験を数多く重ねるということは、ひとつの味の基準に近づく方法でもあり、チームメイトの信頼を生むことにもつながっています。
若い時はしつこい味をおいしいと感じるが、年齢とともに淡い味もおいしいと思うようになります。濃いソースで隠されない素材自体の味と香りを喜べるようになる。それこそが熟練が至る最後の姿であって、素材に与えられている味の優れた部分を生かしきることが、料理人の使命なのでしょう。
基礎を習ったばかりの人は、特に最初は非常にいきりたった火の使い方をするのです。全開の火を魚に当ててしまったりする。そうすると、料理のほうも疲れたものになってしまう。疲れきった素材が皿に乗ることになる。
火の使い方がわかっている人は、「寝たふりをしながら素材に徐々に火を当てていく」というように、素材が疲れないような加熱調理をします。
日常的に努力をして、素材に対して理解と工夫を得たことが、個人の体系的な基礎をつくり上げるのです。その基礎は、ひとつの部分の技術だけには終わらない。広がりと応用性を備えた基礎になるはずです。基礎とは、「いかに密度の濃い仕事をして、素材の特性を理解しようとするか?」というところから生まれるのです。
「テリーヌは、何度で何分でしょう?」そういう小賢しい基礎知識を振り回す人を見ると、ちょっとムッとしてしまいます。そんなことないよ。試してみなければわからないじゃないか。結果がよければそれが最高のテリーヌの作り方なんだ。
攻撃は最大の防御だと思います。いちばん旬のところで仕事をするのが、結果的にいちばん防御することにもなります。
「この個性さえあれば、パリでもアマゾンでも通用する」と自分で思えるようなものを宿せば、どこに行っても、料理を作れますよ。「あれがないとできない」というような小賢しい知識とか技術だけじゃなくて、生理的に太いところを鍛錬してくれればなぁ、と、そんな風に思っています。
ぼくが新人に望むのは「環境になじんで透明になること」ですね。このお店に来た時に、余計な色がついていないというか。
要するに、そこにいる人たちと同じものを宿さなければ、透明にはなれないのです。別のものを持っていては、調理場で異物として扱われますから。
捨てられないものを引きずりながら、新しいものを手に入れようというムシのいい若者もいますが、「それでうまくいくことは、ないよ」「欲しかったらぜんぶ捨てなさい」とそれだけは徹底的に叩き込んでいます。
ウソをつかない。ズルをしない。人が困っているのを見過ごさない。
彼らは朝の7時から夜は最後まで「ぶっ通し」です。休みなく働いている。チームのためであり、そして何よりも自分のためですから、ほんとうに必死にやっているのです。短い時間で食事を取り、あとは全ての時間を仕事にあてていますね。
知識や才能がいくらあっても、それ単体では生き残れないのが、料理の世界の不文律なのです。
知識や才能を、作動させて開花させるための環境づくりは、もしかしたら、知識や才能を獲得するよりも、ずっと難しくて、ずっと重要なことかもしれません。
ぼくも、何十年も料理の世界にいますが、耳に心地よく響く、優雅な答えなんて、持っていませんものね。
本に書いてあったからとか、講習を受けたからとか、そのひとつだけでわかるものごとは、ごくごくわずかなものではないでしょうか。
見る、聞く、嗅ぐ、動く、体の中にまで入り込んだ時に、初めて、言葉や手法は発露するのです。
人がものごとを吸収して、それを行動の原動力にまで変えていくというのは、とても効率の悪い、時間のかかることだと思います。
ここでご紹介したのは一部の切り取りなわけですが、この本のポイントはこういう切り取りではなく、職人として成長するために自分は何をしてきたのか、職人とは何か、ということでした。
そこには、職人と一朝一夕が相容れないのは何故か、という答えもあります。
これだけ素晴らしい名言の数々ですから、もう私の解説などは不要でしょうけど、少しだけ。
料理と相場というのは、本当に似ていると思います。
両方共に、素材があって、技術がある。
その絶妙な組み合わせこそが結果につながります。
特に、
素材の良さには勝てない
だからこそ、素材の目利きとともに、如何に素材の良さを活かして料理ができるか、ということが腕にもなります。
逆に、どんなにいい腕があっても、素材が悪ければ、もう最初から
お前はもう死んでいる
試合前から答えはわかっているわけです。
トレンドフォローなら、トレンドが出なければ、どんなに腕利きであっても勝てない
そんなこと当たり前のことです。
というより、いい腕の料理人は、素材がいいか悪いかなどという目利きがそもそもできるのだから、そんな悪い素材には近づかない、というのが本旨でしょう。
ただ、その目利きをつけるのは、とても時間がかかる、ということです。
素人が、明日から骨董品屋の目利きができる、と思っている人はまさかいないでしょう。
素材の吟味、そして、それを調理する腕、そして、心
この三位一体があってこそ、結果が出るのが料理であり、相場です。
ただ、両者が似ていないのは、
料理人はレシピだけにこだわる人は少ないが、相場人はレシピだけにこだわる人がほとんど
ってことでしょうかね(笑)
当然ながら、この本で、彼がレシピ本を読み漁った、という記述は一言もありませんでしたね。
頭で考えれば、「パリなんかで修行しなくても、レシピ本読めばいいんじゃね。」ということなんでしょうかね。

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調理場という戦場―「コート・ドール」斉須政雄の仕事論 (幻冬舎文庫)
タイトルだけでもうやられてしまいましたが、実際に読んでみると、中身も実によいことが書いてありましたので、少しばかりおすそ分けしておきましょう。
ひとつひとつの工程を丁寧にクリアしていなければ、大切な料理を当たり前に作ることができない。大きなことだけをやろうとしていても、ひとつずつの行動が伴わない。
裾野が広がっていない山は高くない。
若い人であっても意識のブヨブヨしたいやらしいところを持っている人がいますから、それを見かけた場合には、ぼくは、徹底的にやっつけますね。年齢が若いからとか経験が少ないからということで、情けをかける気はないのです。
ぼくが怒るのは、精神的な姿勢のことだから。
技術的なことで間違った、それを厳しく言うことはありません。壊そうと思って壊す人はいない。失敗しようと思って失敗する人はいない。それは問いません。
窮地に陥ってどうしようもない時ほど、日常生活でやってきた下地があからさまに出てくる。
今の「コート・ドール」のチームメイトにも、ぼくは「たいへんだと思っても、続けるんだ」と言っています。続けると、いろいろわかってくる、だから頑張る。
料理人は天性や才能によって創造的な仕事をするように思われています。だけどほんとうの料理人のすばらしさというものは、どれだけ努力をしてどれだけ実地の経験を積んだかで決まります。
味の基準がわからない時には、毎日作るというのもひとつの手です。なぜなら、味の基準を見極められない人に抽象的に教えることはできないからです。味つけの具体的な経験を数多く重ねるということは、ひとつの味の基準に近づく方法でもあり、チームメイトの信頼を生むことにもつながっています。
若い時はしつこい味をおいしいと感じるが、年齢とともに淡い味もおいしいと思うようになります。濃いソースで隠されない素材自体の味と香りを喜べるようになる。それこそが熟練が至る最後の姿であって、素材に与えられている味の優れた部分を生かしきることが、料理人の使命なのでしょう。
基礎を習ったばかりの人は、特に最初は非常にいきりたった火の使い方をするのです。全開の火を魚に当ててしまったりする。そうすると、料理のほうも疲れたものになってしまう。疲れきった素材が皿に乗ることになる。
火の使い方がわかっている人は、「寝たふりをしながら素材に徐々に火を当てていく」というように、素材が疲れないような加熱調理をします。
日常的に努力をして、素材に対して理解と工夫を得たことが、個人の体系的な基礎をつくり上げるのです。その基礎は、ひとつの部分の技術だけには終わらない。広がりと応用性を備えた基礎になるはずです。基礎とは、「いかに密度の濃い仕事をして、素材の特性を理解しようとするか?」というところから生まれるのです。
「テリーヌは、何度で何分でしょう?」そういう小賢しい基礎知識を振り回す人を見ると、ちょっとムッとしてしまいます。そんなことないよ。試してみなければわからないじゃないか。結果がよければそれが最高のテリーヌの作り方なんだ。
攻撃は最大の防御だと思います。いちばん旬のところで仕事をするのが、結果的にいちばん防御することにもなります。
「この個性さえあれば、パリでもアマゾンでも通用する」と自分で思えるようなものを宿せば、どこに行っても、料理を作れますよ。「あれがないとできない」というような小賢しい知識とか技術だけじゃなくて、生理的に太いところを鍛錬してくれればなぁ、と、そんな風に思っています。
ぼくが新人に望むのは「環境になじんで透明になること」ですね。このお店に来た時に、余計な色がついていないというか。
要するに、そこにいる人たちと同じものを宿さなければ、透明にはなれないのです。別のものを持っていては、調理場で異物として扱われますから。
捨てられないものを引きずりながら、新しいものを手に入れようというムシのいい若者もいますが、「それでうまくいくことは、ないよ」「欲しかったらぜんぶ捨てなさい」とそれだけは徹底的に叩き込んでいます。
ウソをつかない。ズルをしない。人が困っているのを見過ごさない。
彼らは朝の7時から夜は最後まで「ぶっ通し」です。休みなく働いている。チームのためであり、そして何よりも自分のためですから、ほんとうに必死にやっているのです。短い時間で食事を取り、あとは全ての時間を仕事にあてていますね。
知識や才能がいくらあっても、それ単体では生き残れないのが、料理の世界の不文律なのです。
知識や才能を、作動させて開花させるための環境づくりは、もしかしたら、知識や才能を獲得するよりも、ずっと難しくて、ずっと重要なことかもしれません。
ぼくも、何十年も料理の世界にいますが、耳に心地よく響く、優雅な答えなんて、持っていませんものね。
本に書いてあったからとか、講習を受けたからとか、そのひとつだけでわかるものごとは、ごくごくわずかなものではないでしょうか。
見る、聞く、嗅ぐ、動く、体の中にまで入り込んだ時に、初めて、言葉や手法は発露するのです。
人がものごとを吸収して、それを行動の原動力にまで変えていくというのは、とても効率の悪い、時間のかかることだと思います。
ここでご紹介したのは一部の切り取りなわけですが、この本のポイントはこういう切り取りではなく、職人として成長するために自分は何をしてきたのか、職人とは何か、ということでした。
そこには、職人と一朝一夕が相容れないのは何故か、という答えもあります。
これだけ素晴らしい名言の数々ですから、もう私の解説などは不要でしょうけど、少しだけ。
料理と相場というのは、本当に似ていると思います。
両方共に、素材があって、技術がある。
その絶妙な組み合わせこそが結果につながります。
特に、
素材の良さには勝てない
だからこそ、素材の目利きとともに、如何に素材の良さを活かして料理ができるか、ということが腕にもなります。
逆に、どんなにいい腕があっても、素材が悪ければ、もう最初から
お前はもう死んでいる
試合前から答えはわかっているわけです。
トレンドフォローなら、トレンドが出なければ、どんなに腕利きであっても勝てない
そんなこと当たり前のことです。
というより、いい腕の料理人は、素材がいいか悪いかなどという目利きがそもそもできるのだから、そんな悪い素材には近づかない、というのが本旨でしょう。
ただ、その目利きをつけるのは、とても時間がかかる、ということです。
素人が、明日から骨董品屋の目利きができる、と思っている人はまさかいないでしょう。
素材の吟味、そして、それを調理する腕、そして、心
この三位一体があってこそ、結果が出るのが料理であり、相場です。
ただ、両者が似ていないのは、
料理人はレシピだけにこだわる人は少ないが、相場人はレシピだけにこだわる人がほとんど
ってことでしょうかね(笑)
当然ながら、この本で、彼がレシピ本を読み漁った、という記述は一言もありませんでしたね。
頭で考えれば、「パリなんかで修行しなくても、レシピ本読めばいいんじゃね。」ということなんでしょうかね。

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