偶然と必然の狭間で
2016/01/06 Wed
目の前の勝負・・・相場において、上か下か、専業が負けて、初心者が勝つ、ということは大いにある。
相場は偶然なのか、それとも必然なのか。
実は、この両者の見分けはすごく難しい。
何が偶然で、何が必然なのか。
ここの見分けがつかないことで、多くは混乱し、相場を難しくする。
みんなは、必然を求めて、当てよう当てようと必死なのだけれど、そう簡単には当たらない。
当てる方法をみんなが血眼になって探しているけど、結局は見つからない。
当てる方法を探しているのは自分だけじゃない。
みんな探しているのだ、ってことに気がつかないといけない。
ちょとと儲かると、「勝てるようになった」と思う。
つまり、必然の結果だと感じるようになる。
それが1ヶ月、2ヶ月も続けば、もう自分は天下を取ったと思うようになる。
環境が後押ししてくれれば、年単位でもそういうことは起きる。
しかし、ほとんどの場合、それは偶然の結果で、単なるラッキーだ。
本人は、必然だと感じているけど、偶然、たまたま、ラッキー。
そして、それが偶然だったことは、しばらくすると全部吐き出すことによって見事に証明される。
この繰り返しこそがトレーダーの日常といってもよい。
いわゆる
鵜飼の鵜
である。
ほとんどの人にとって、この相場の偶然性を理解することは困難だ。
だから、偶然なのに必然だと感じてしまう。
勝てる方法が見つかったと感じる至福の瞬間がそこにある。
勝てる方法を手にいれた、天下を取ったと思える瞬間を多くのトレーダーは一度二度は経験している。
勝てば官軍、結果主義、拝金主義がそう思わせてしまう。
一方で、確率2分の1だというのに、デイトレの現場では、自分が売った途端に上がる、自分が買った途端に下げる。
これもまた日常。
自分を見ていたの如く、見事に逆を行く。
誰かが自分の売買を見ていて、わざと嫌がらせをしているのか、と思うぐらいに逆に行く。
たまのお休みで、デイトレでもやってみるか、とやったら、10戦10敗で、やるんじゃなかった、美味しいものでも食べに行けばよかった、となるのが普通。
けちょんけちょんにやられて、デイトレなんて、とイソップのぶどうが取れないキツネのようなことを言うようになる。
誰も言わないけど、相場をやっていれば一度や二度経験しているのが普通。
じゃあ、トレードなんて、上か下か、結局偶然だったら、適当にやっても同じじゃないか、とも思う。
専業がやっても負けるし、初心者がやったら勝ったりする。
トレードって単なる偶然なのか。
目の前のトレードを当てるのは難しい・・・というより、偶然の要素が大きいのだから、そもそも当たらないと言った方がよい。
それでも当てよう当てようと必死でやり方を求めて、ゾンビのように徘徊する多くのトレーダーたちがいる。
この目の前の勝負の偶然性を理解している人は実は多くない。
多くは、必然性を期待し、予想し、自分が買ったら上がるという期待を膨らませる。
だから、反対に行っても認めようとはしない。
しかし、次がどうなるかなど、どう期待しても本当は誰にもわからない。
未来予想などできない。
次の瞬間、大事件が起きるかどうか、次の瞬間、天変地異が起きるかどうか、ということを予想できないのと相場を予想できないのとは同次元だということに気がついていない。
天変地異が起きれば、相場は下げる、という相関性を理解してはいない、と言ってもよい。
この次の瞬間を予想できると考えるか、できないと考えるか、ここの考え方の違いは結果に天と地ほどの違いを生むけれど、ここを意識している人は実に少ない。
ところが一方で、そういった偶然である目の前の勝負を積み重ねて、回数を重ねていくと、不思議な事に、勝つべき人が勝って、負けるべき人は負ける。
月間を通じて、年間を通じて見ると、やはりそうなっている。
不思議な事に、トレードはそう出来ている。
勝つべき人は結局最後は勝って、負けるべき人は結局最後は負ける。
ここがトレードの摩訶不思議なところで、目の前の勝負しか見えていない人には見えない景色がそこにある。
当たり外れだけが相場で、当てる方法が見つかれば、と思っている人には見えない景色がある。
目の前の勝負にばかりこだわって、勝てば官軍、と思っている人には見えない世界がそこには存在する。
いつも負けている人は、次も負ける、その次も負ける、きっとその次も負ける。
つまり、そこにトレードの必然性が存在する。
目の前の勝負ばかりに目が行って、当てればよいと思っている人は、そういう勝負を継続的に行ったらどうなるか、には目が行かない。
多くは、偶然が支配する目先を必然に変えようとして苦心惨憺するのだけれど、所詮「偶然が支配している」ということに気がついてはいない。
だから、いくら努力しても、そこに答えなど見つからない。
一方で、極一部の人たちは、
目先の偶然性を信じる一方で、長期的必然性を信じている
だから、目の前の勝負に鉱泥しない。
目の前の勝負など、ただの偶然なのだから、そこにこだわる無意味さを理解しているからだ。
多くの人が勝っている人に対して抱く誤解は、目先の勝負で勝つことの延長線にトータルの勝ちがあると思っていること。
だから、目の前の勝負を当てに行くことに全力を尽くしてしまう。
目先とトータルが同じだと思っている。
一方で、勝っている人は、目先とトータルの違いを理解している。
これは、カジノのルーレットで次の目を当てようと必死になっている客と、そんな目先の当たり外れを全く気にもしないカジノのオーナーとの違いと言ってもよい。
カジノでは、目先の勝負をいくら頑張ったとて、その延長線上に勝ちは無い。
客は負けて、オーナーは勝つようになっている。
目先の勝負に目を血走らせている者が負けて、トータルを考えている者が勝つ。
皮肉な結果になる。
ほとんどの人にとって、トレードを難しくしているのは、この目先と長期に対する偶然と必然の見分けがつかないことから来るもの、じゃないかと思う。

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相場は偶然なのか、それとも必然なのか。
実は、この両者の見分けはすごく難しい。
何が偶然で、何が必然なのか。
ここの見分けがつかないことで、多くは混乱し、相場を難しくする。
みんなは、必然を求めて、当てよう当てようと必死なのだけれど、そう簡単には当たらない。
当てる方法をみんなが血眼になって探しているけど、結局は見つからない。
当てる方法を探しているのは自分だけじゃない。
みんな探しているのだ、ってことに気がつかないといけない。
ちょとと儲かると、「勝てるようになった」と思う。
つまり、必然の結果だと感じるようになる。
それが1ヶ月、2ヶ月も続けば、もう自分は天下を取ったと思うようになる。
環境が後押ししてくれれば、年単位でもそういうことは起きる。
しかし、ほとんどの場合、それは偶然の結果で、単なるラッキーだ。
本人は、必然だと感じているけど、偶然、たまたま、ラッキー。
そして、それが偶然だったことは、しばらくすると全部吐き出すことによって見事に証明される。
この繰り返しこそがトレーダーの日常といってもよい。
いわゆる
鵜飼の鵜
である。
ほとんどの人にとって、この相場の偶然性を理解することは困難だ。
だから、偶然なのに必然だと感じてしまう。
勝てる方法が見つかったと感じる至福の瞬間がそこにある。
勝てる方法を手にいれた、天下を取ったと思える瞬間を多くのトレーダーは一度二度は経験している。
勝てば官軍、結果主義、拝金主義がそう思わせてしまう。
一方で、確率2分の1だというのに、デイトレの現場では、自分が売った途端に上がる、自分が買った途端に下げる。
これもまた日常。
自分を見ていたの如く、見事に逆を行く。
誰かが自分の売買を見ていて、わざと嫌がらせをしているのか、と思うぐらいに逆に行く。
たまのお休みで、デイトレでもやってみるか、とやったら、10戦10敗で、やるんじゃなかった、美味しいものでも食べに行けばよかった、となるのが普通。
けちょんけちょんにやられて、デイトレなんて、とイソップのぶどうが取れないキツネのようなことを言うようになる。
誰も言わないけど、相場をやっていれば一度や二度経験しているのが普通。
じゃあ、トレードなんて、上か下か、結局偶然だったら、適当にやっても同じじゃないか、とも思う。
専業がやっても負けるし、初心者がやったら勝ったりする。
トレードって単なる偶然なのか。
目の前のトレードを当てるのは難しい・・・というより、偶然の要素が大きいのだから、そもそも当たらないと言った方がよい。
それでも当てよう当てようと必死でやり方を求めて、ゾンビのように徘徊する多くのトレーダーたちがいる。
この目の前の勝負の偶然性を理解している人は実は多くない。
多くは、必然性を期待し、予想し、自分が買ったら上がるという期待を膨らませる。
だから、反対に行っても認めようとはしない。
しかし、次がどうなるかなど、どう期待しても本当は誰にもわからない。
未来予想などできない。
次の瞬間、大事件が起きるかどうか、次の瞬間、天変地異が起きるかどうか、ということを予想できないのと相場を予想できないのとは同次元だということに気がついていない。
天変地異が起きれば、相場は下げる、という相関性を理解してはいない、と言ってもよい。
この次の瞬間を予想できると考えるか、できないと考えるか、ここの考え方の違いは結果に天と地ほどの違いを生むけれど、ここを意識している人は実に少ない。
ところが一方で、そういった偶然である目の前の勝負を積み重ねて、回数を重ねていくと、不思議な事に、勝つべき人が勝って、負けるべき人は負ける。
月間を通じて、年間を通じて見ると、やはりそうなっている。
不思議な事に、トレードはそう出来ている。
勝つべき人は結局最後は勝って、負けるべき人は結局最後は負ける。
ここがトレードの摩訶不思議なところで、目の前の勝負しか見えていない人には見えない景色がそこにある。
当たり外れだけが相場で、当てる方法が見つかれば、と思っている人には見えない景色がある。
目の前の勝負にばかりこだわって、勝てば官軍、と思っている人には見えない世界がそこには存在する。
いつも負けている人は、次も負ける、その次も負ける、きっとその次も負ける。
つまり、そこにトレードの必然性が存在する。
目の前の勝負ばかりに目が行って、当てればよいと思っている人は、そういう勝負を継続的に行ったらどうなるか、には目が行かない。
多くは、偶然が支配する目先を必然に変えようとして苦心惨憺するのだけれど、所詮「偶然が支配している」ということに気がついてはいない。
だから、いくら努力しても、そこに答えなど見つからない。
一方で、極一部の人たちは、
目先の偶然性を信じる一方で、長期的必然性を信じている
だから、目の前の勝負に鉱泥しない。
目の前の勝負など、ただの偶然なのだから、そこにこだわる無意味さを理解しているからだ。
多くの人が勝っている人に対して抱く誤解は、目先の勝負で勝つことの延長線にトータルの勝ちがあると思っていること。
だから、目の前の勝負を当てに行くことに全力を尽くしてしまう。
目先とトータルが同じだと思っている。
一方で、勝っている人は、目先とトータルの違いを理解している。
これは、カジノのルーレットで次の目を当てようと必死になっている客と、そんな目先の当たり外れを全く気にもしないカジノのオーナーとの違いと言ってもよい。
カジノでは、目先の勝負をいくら頑張ったとて、その延長線上に勝ちは無い。
客は負けて、オーナーは勝つようになっている。
目先の勝負に目を血走らせている者が負けて、トータルを考えている者が勝つ。
皮肉な結果になる。
ほとんどの人にとって、トレードを難しくしているのは、この目先と長期に対する偶然と必然の見分けがつかないことから来るもの、じゃないかと思う。

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