長期的視点を持つということ
2018/05/07 Mon
GWで実家に帰っていた時、次のような話題になりました。
「母親が食事を作りすぎてしまうので、無理して食べないといけない。」
というものです。よくある話です。
これは、残してはもったいないので、残り物をさらってしまう、という考え方です。
食べ物を残してはいけない、もったいない
という考え方は、多くの人が持っているメンタリティだと思います。
こういうこともあるでしょう。
子育て中のお母さんが子供の残り物をさらう
料理を作って、まずかったが、無理して食べた
これらは、全て、食べ物を残してはいけない、もったいない
という気持ちからの行動です。
さて、その結果、長期的に見ると、何が起きるのかというと、
食べ過ぎによって太る、血液検査データが悪化する、病気になる
ということです。
食べ残しをさらうことで、成人病になって、命の危険すらある、ってことに、気がついていないのです。
以上を考えた時、
目先のもったいない、という気持ちを満たした結果、太ってしまって、病気になるという長期的リスクを背負う
こういうリスクを背負うことになる「残り物をさらうという行為」は、果たして合理的行動と言えるのでしょうか。
確かにもったいない、という気持ちはわかりますが、その結果もたらされるリスクを考えれば、残す、捨てる、という選択肢もあってしかるべきだと思えます。
そもそも「食べたくないものを、もったいないから、無理して食べている」ということです。
百歩譲って、食べたくて食べ過ぎる、のなら、まだ短期的食欲を満たしている、とも言えますが、残り物をさらう、という行為には、短期の満足感すらありません。
それが原因となって、太ったり、病気になったりするぐらいであれば、無理して食べるメリットはどこにも無いわけです。
また、そうやって子供が無理して食べるから、親も多く作る、という悪循環が起きています。
太った原因を、子育てだとか、親が作りすぎるから、ということにしてしまうのは、いかがなものなんでしょう。
このように、
人の行動の多くは、眼の前で起きていることの損得勘定や精神的満足度によって優先され、長期的視点はなおざりにされる
傾向が大変強いのです。
眼の前にぶら下がっているにんじんを追いかける馬
と同じということです。
これからいったい自分はどこに行くのか、などは気にしておらず、とにかく目の前にぶらさがったにんじんしか見えてはいないのです。
近視眼的
なんです。
これは、勉強を放り出してバイトに精を出す学生、も同じです。
学生の本分である勉強の結果もたらされる将来の大きなリターンを無視して、目先の時給1000円に目がくらんでしまっている状態です。
さらに言えば、社会人になっても同じです。
多くの人は、目先の収入や仕事のこと、目の前の日々の暮らしのことしか見えていない、ように見えます。
なので、長期的目線に立った自分の人生設計などは、漠然とは考えてはいても、日頃の行動には何ら影響することはありません。
この長期的視野に立てない大きな原因になっているのが、
自分の具体的な将来目標・夢を持っていない
ということなのです。
目標が無いから、今の延長線上で何となく、ぼんやりとしか将来を考えられなくなっています。
そもそも自分がどこへ行こうとしているのかが見えていない。
これは、目的地の無い航海と同じです。これでは、ただの漂流船です。
何となく、このまま会社にいて、60歳になったら退職して、年金をもらって、という、今の延長で流される人生、を漠然と考えているので、目の前のことだけを毎日考えて行動する、ということになってしまっているのです。
自分のことで恐縮ですが、私は、20代のころから、40頃には、相場で食っていくことを目標にして、人生設計をしていました。
大望・野望
ってやつです。残念ながら、志とまでは行きません(笑)
なので、20代のころから、その目標に向かって、毎日毎日勉強に時間を使って、週末は相場の研究、という暮らしを10年以上続けていました。
どうしてそういうストイックな暮らしが続けられたのか、というと、偏にゴールを設定し、それに向かって歩んだから、と言えるでしょう。
周りから見れば、毎日勉強して頑張っているとか、しんどいだろうな、ということでも、ゴールに向かって歩んでいる本人からすれば、それは何よりの楽しみだったのです。
何となく相場が好きである、とか、何となく儲かればいいな~、というのでは、それだけの努力など絶対にできなかったと思います。
周りは、ほぼ一般サラリーマンですから、みんなお金を使って遊んだり、飲みに行ったりしている中で、一人だけストイックに相場の本や研究にお金と時間を使って、日々没頭するエンジンとなったのは、長期的目線に立った目標でした。
これは別に、会社で重役になる、であっても、会社を起業する、であってもいいと思います。
そういった自分の大きな夢や目標を持っているか、持っていないか、の違いは、5年先、10年先の結果に大きな違いをもたらすものだと思います。
学生時代にわずか数年間勉強したか、しないか、だけでも違いは大きいのに、それよりも遥かに長い社会人生活において、目標を持って頑張っているか、頑張っていないかの違いは、桁違いに大きく差が出ます。時間の長さが違うのだから当たり前です。
目標を持って頑張っている人と、なんとなく日々に流され、目先目先の刹那的人生を送っている人とを比べれば、時間の経過によって、圧倒的違いになってくるのは、明らかだと私は思います。
是非、一度、自分の将来について、時間をかけて本気で考えてみられてはどうでしょう。
もし、本気で取り組める夢や目標が持てれば、そこへ向かっての冒険旅行こそが、人生の最大の楽しみだと言えるのではないかと私は思います。
ただの夢物語でもいいんです。
多くの人が、そういった冒険の目標を持てず、人生をただ流れに任せて漂流している実態があるのですから、そういう わくわくできる人生の夢 が持てただけでも、幸せだと思います。
その目標へ向かう道中、つまり プロセスこそが人生の喜び だと私は思います。
漂流船であるか、目的地のある航海なのか、その違いこそが大きいのです。
実は、目的地に着けたか着けないか、結果が出るとか出ないとかは、二の次なんです。
生きることが楽しくない、嬉しくない、人生は苦しいだけだ、という人が結構いますが、そういう違いが大きいのじゃないかと思っています。
少し余談でした(笑)
さて、トレードにも、これと全く同じ現象が起きます。
つまり、
目の前のトレードで勝つか負けるか、が優先されてしまう
ということです。
眼の前の損失を確定するのがもったいない、損を出したくない、という気持ちから、それを先送りしてしまう、ということが起きるのです。
ちょっとの損がもったいない
です。
その結果、起きることは、とにかく目の前の勝負で勝ちたいのだから、マイナスになると勝つまで粘ってしまう一方で、ちょっとでもプラスになると、逆行されるのが怖いから、さっさと利食いしてしまう、という行動になります。
その結果、
小さな利食いを繰り返す一方で、どこかで大きな損失を食らう
ということが、必然的に起きてしまうのです。
そもそも、
相場の値動きというのは、保ち合いを続ける中で、どこかで必ずトレンドが発生する
ものです。
かつて、トレンドが発生したことがない相場など無い のです。
損切りしない人というのは、このあり得ないことに歯向かっていっているのだ、ということに気がついていないのです。
相場で勝ち残っていくつもりならば、長期的視点に立って、そういう値動きの本質をベースにしたトレードを絶対にやらなくてはいけないのです。
だから、こういう目先の損益を優先するようなトレードを続ける限り、結果的に、
コツコツドカン
を避けることは絶対にできません。
そして、この
コツコツドカンを続ける限り、相場で勝ち残ることは難しい
です。
これは、やり方、手法、以前の問題です。
トレードも、短期的視点ではなく、長期的視点で見るべきですが、ここで書いたように、人は、長期的視点で考えることを大変苦手にしていますので、どうしても目先の損得を優先してしまうのです。
眼の前のにんじん
です。
こういうことをGWに実家での会話の中で、考えていました。

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「母親が食事を作りすぎてしまうので、無理して食べないといけない。」
というものです。よくある話です。
これは、残してはもったいないので、残り物をさらってしまう、という考え方です。
食べ物を残してはいけない、もったいない
という考え方は、多くの人が持っているメンタリティだと思います。
こういうこともあるでしょう。
子育て中のお母さんが子供の残り物をさらう
料理を作って、まずかったが、無理して食べた
これらは、全て、食べ物を残してはいけない、もったいない
という気持ちからの行動です。
さて、その結果、長期的に見ると、何が起きるのかというと、
食べ過ぎによって太る、血液検査データが悪化する、病気になる
ということです。
食べ残しをさらうことで、成人病になって、命の危険すらある、ってことに、気がついていないのです。
以上を考えた時、
目先のもったいない、という気持ちを満たした結果、太ってしまって、病気になるという長期的リスクを背負う
こういうリスクを背負うことになる「残り物をさらうという行為」は、果たして合理的行動と言えるのでしょうか。
確かにもったいない、という気持ちはわかりますが、その結果もたらされるリスクを考えれば、残す、捨てる、という選択肢もあってしかるべきだと思えます。
そもそも「食べたくないものを、もったいないから、無理して食べている」ということです。
百歩譲って、食べたくて食べ過ぎる、のなら、まだ短期的食欲を満たしている、とも言えますが、残り物をさらう、という行為には、短期の満足感すらありません。
それが原因となって、太ったり、病気になったりするぐらいであれば、無理して食べるメリットはどこにも無いわけです。
また、そうやって子供が無理して食べるから、親も多く作る、という悪循環が起きています。
太った原因を、子育てだとか、親が作りすぎるから、ということにしてしまうのは、いかがなものなんでしょう。
このように、
人の行動の多くは、眼の前で起きていることの損得勘定や精神的満足度によって優先され、長期的視点はなおざりにされる
傾向が大変強いのです。
眼の前にぶら下がっているにんじんを追いかける馬
と同じということです。
これからいったい自分はどこに行くのか、などは気にしておらず、とにかく目の前にぶらさがったにんじんしか見えてはいないのです。
近視眼的
なんです。
これは、勉強を放り出してバイトに精を出す学生、も同じです。
学生の本分である勉強の結果もたらされる将来の大きなリターンを無視して、目先の時給1000円に目がくらんでしまっている状態です。
さらに言えば、社会人になっても同じです。
多くの人は、目先の収入や仕事のこと、目の前の日々の暮らしのことしか見えていない、ように見えます。
なので、長期的目線に立った自分の人生設計などは、漠然とは考えてはいても、日頃の行動には何ら影響することはありません。
この長期的視野に立てない大きな原因になっているのが、
自分の具体的な将来目標・夢を持っていない
ということなのです。
目標が無いから、今の延長線上で何となく、ぼんやりとしか将来を考えられなくなっています。
そもそも自分がどこへ行こうとしているのかが見えていない。
これは、目的地の無い航海と同じです。これでは、ただの漂流船です。
何となく、このまま会社にいて、60歳になったら退職して、年金をもらって、という、今の延長で流される人生、を漠然と考えているので、目の前のことだけを毎日考えて行動する、ということになってしまっているのです。
自分のことで恐縮ですが、私は、20代のころから、40頃には、相場で食っていくことを目標にして、人生設計をしていました。
大望・野望
ってやつです。残念ながら、志とまでは行きません(笑)
なので、20代のころから、その目標に向かって、毎日毎日勉強に時間を使って、週末は相場の研究、という暮らしを10年以上続けていました。
どうしてそういうストイックな暮らしが続けられたのか、というと、偏にゴールを設定し、それに向かって歩んだから、と言えるでしょう。
周りから見れば、毎日勉強して頑張っているとか、しんどいだろうな、ということでも、ゴールに向かって歩んでいる本人からすれば、それは何よりの楽しみだったのです。
何となく相場が好きである、とか、何となく儲かればいいな~、というのでは、それだけの努力など絶対にできなかったと思います。
周りは、ほぼ一般サラリーマンですから、みんなお金を使って遊んだり、飲みに行ったりしている中で、一人だけストイックに相場の本や研究にお金と時間を使って、日々没頭するエンジンとなったのは、長期的目線に立った目標でした。
これは別に、会社で重役になる、であっても、会社を起業する、であってもいいと思います。
そういった自分の大きな夢や目標を持っているか、持っていないか、の違いは、5年先、10年先の結果に大きな違いをもたらすものだと思います。
学生時代にわずか数年間勉強したか、しないか、だけでも違いは大きいのに、それよりも遥かに長い社会人生活において、目標を持って頑張っているか、頑張っていないかの違いは、桁違いに大きく差が出ます。時間の長さが違うのだから当たり前です。
目標を持って頑張っている人と、なんとなく日々に流され、目先目先の刹那的人生を送っている人とを比べれば、時間の経過によって、圧倒的違いになってくるのは、明らかだと私は思います。
是非、一度、自分の将来について、時間をかけて本気で考えてみられてはどうでしょう。
もし、本気で取り組める夢や目標が持てれば、そこへ向かっての冒険旅行こそが、人生の最大の楽しみだと言えるのではないかと私は思います。
ただの夢物語でもいいんです。
多くの人が、そういった冒険の目標を持てず、人生をただ流れに任せて漂流している実態があるのですから、そういう わくわくできる人生の夢 が持てただけでも、幸せだと思います。
その目標へ向かう道中、つまり プロセスこそが人生の喜び だと私は思います。
漂流船であるか、目的地のある航海なのか、その違いこそが大きいのです。
実は、目的地に着けたか着けないか、結果が出るとか出ないとかは、二の次なんです。
生きることが楽しくない、嬉しくない、人生は苦しいだけだ、という人が結構いますが、そういう違いが大きいのじゃないかと思っています。
少し余談でした(笑)
さて、トレードにも、これと全く同じ現象が起きます。
つまり、
目の前のトレードで勝つか負けるか、が優先されてしまう
ということです。
眼の前の損失を確定するのがもったいない、損を出したくない、という気持ちから、それを先送りしてしまう、ということが起きるのです。
ちょっとの損がもったいない
です。
その結果、起きることは、とにかく目の前の勝負で勝ちたいのだから、マイナスになると勝つまで粘ってしまう一方で、ちょっとでもプラスになると、逆行されるのが怖いから、さっさと利食いしてしまう、という行動になります。
その結果、
小さな利食いを繰り返す一方で、どこかで大きな損失を食らう
ということが、必然的に起きてしまうのです。
そもそも、
相場の値動きというのは、保ち合いを続ける中で、どこかで必ずトレンドが発生する
ものです。
かつて、トレンドが発生したことがない相場など無い のです。
損切りしない人というのは、このあり得ないことに歯向かっていっているのだ、ということに気がついていないのです。
相場で勝ち残っていくつもりならば、長期的視点に立って、そういう値動きの本質をベースにしたトレードを絶対にやらなくてはいけないのです。
だから、こういう目先の損益を優先するようなトレードを続ける限り、結果的に、
コツコツドカン
を避けることは絶対にできません。
そして、この
コツコツドカンを続ける限り、相場で勝ち残ることは難しい
です。
これは、やり方、手法、以前の問題です。
トレードも、短期的視点ではなく、長期的視点で見るべきですが、ここで書いたように、人は、長期的視点で考えることを大変苦手にしていますので、どうしても目先の損得を優先してしまうのです。
眼の前のにんじん
です。
こういうことをGWに実家での会話の中で、考えていました。

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